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仙台地方裁判所 昭和60年(ワ)832号 判決 1991年7月31日

《目次》

当事者

主文

事実

第一当事者の求めた裁判

第二当事者の主張

一請求原因

1当事者の地位

2再審無罪判決確定に至るまで

3宮城県警察の行った捜査の違法性

(一) 傷害事件による逮捕の違法性

(1) 別件逮捕の違法性

(2) 逮捕状請求書への虚偽記載

(二) 高橋二郎を同房させたこと等の違法性

(三) 取調べの方法、態様の違法性

(1) 深夜に及ぶ長時間連続の取調べ

(2) 複数捜査員による自白の強制

(3) 偽計による取調べ

(4) 誘導による取調べ

(四) ジャンパー、ズボンの非科学的処理

(五) 掛布団襟当の血痕の偽造

(1) 襟当の血痕は被害者の返り血ではないこと

(2) 平塚掛布団鑑定をめぐる疑惑

(3) 血痕の数に関する疑惑

(4) 捜査差押調書添付写真の疑惑

(5) 血痕を家族や原告一夫に確認させていないこと

(6) 枕、枕カバーが押収されていないこと

(7) まとめ

(六) 捜査員らは原告一夫が真犯人でないことを知っていた

(1) アリバイ

(2) 動機

(3) 事件後の行動

(4) 平塚着衣鑑定の取扱い

(5) 小原方の電灯に関する供述及び捜査

(6) 自在鉤に関する供述及び捜査

(7) 殺害方法に関する供述

(8) 被害者の反応に関する供述

(9) 木小屋、杉葉束に関する供述

(10) 現場から発見された物

(11) トラックの通過した事実に関する供述

(12) 杉林での休憩に関する供述

4検察官の職務執行の違法性

(一) 捜査段階における職務執行の違法性

(二) 公訴提起の違法性

(1) アリバイ

(2) 動機

(3) 荒井丹羽口鑑定の評価

(4) 平塚着衣鑑定の評価

(5) 三木鑑定の評価

(6) 捜査の不十分

(7) 自白の内容

(8) 高橋二郎の供述

(三) 公訴追行の違法性

5裁判所の職権行使の違法

(一) 確定第一審裁判所

(二) 確定控訴審裁判所

(三) 確定上告審裁判所

6損害

(一) 原告一夫の損害

(二) 原告春子の損害

(三) 弁護士費用

7まとめ

二被告県の請求原因に対する認否及び反論

1請求原因1及び2について

2請求原因3(一)について

3請求原因3(二)について

4請求原因3(三)について

5請求原因3(四)について

6請求原因3(五)について

7請求原因3(六)について

三被告国の請求原因に対する認否及び反論

1請求原因1及び2について

2請求原因4(一)について

3請求原因4(二)について

(一)アリバイ

(二) 動機

(三) 荒井丹羽口鑑定の評価

(四) 平塚着衣鑑定の評価

(五) 三木鑑定の評価

(六) 原告一夫の自白に任意性を認めた判断の正当性

(七) 原告一夫の自白に信用性を認めた判断の正当性

4請求原因4(三)について

5請求原因5について

第三証拠

理由

一請求原因1及び2について

二請求原因3(宮城県警察の行った捜査の違法性)について

1傷害事件による逮捕勾留について

(一) いわゆる別件逮捕勾留について

(二) 逮捕勾留に関する事実関係

(三) 検討

(四) 逮捕状請求書の記載について

2高橋二郎を同房させたこと等について

3取調べの方法、態様について

(一) 深夜に及ぶ長時間連続の取調べについて

(二) 複数捜査員による自白の強制について

(三) 偽計による取調べについて

(四) 誘導による取調べについて

(五) まとめ

4ジャンパー、ズボンの取扱いについて

(一) 問題の所在

(二) 関係証拠

(三) 検討

(四) 洗濯による影響の可能性

(五) まとめ

5掛布団襟当の血痕の偽造について

(一) 前提となる事実

(二) 掛布団は原告一夫の使用していたものか

(三) 血痕の数に関する疑惑について

(四) 襟当の写真に血痕が写っているか

(五) 写真ネガの紛失について

(六) 掛布団の移動保管に関する疑惑について

(七) 平塚掛布団鑑定の結果について

(八) 平塚掛布団鑑定書添付写真について

(九) 血痕を原告一夫及び家族に確認させていないことについて

(一〇) 枕、枕カバーが押収されていないことについて

(一一) 血痕の付着状況及び付着原因について

(一二) 襟当の血痕は被害者の返り血ではありえないか

(一三) まとめ

6捜査員らは原告一夫が真犯人でないことを知っていたか

(一) アリバイについて

(二) 動機について

(三) 事件後の行動について

(四) 平塚着衣鑑定の取扱い

(五) 小原方の電灯に関する供述及び捜査

(六) 自在鉤に関する供述及び捜査

(七) 殺害方法に関する供述

(八) 被害者らの反応に関する供述

(九) 木小屋、杉葉束に関する供述

(一〇) 現場から発見された物

(一一) トラックの通過した事実に関する供述

(一二) 杉林での休憩に関する供述について

(一三) まとめ

三請求原因4(検察官の職務執行の違法性)について

1捜査段階における職務執行について

(一) 傷害事件による逮捕勾留について

(二) 松山事件による逮捕勾留について

2公訴の提起について

(一) アリバイについて

(二) 動機について

(三) 平塚着衣鑑定の評価

(四) 三木鑑定の評価

(五) 荒井丹羽口鑑定の評価

(六) 自白の内容の評価

(1) 鹿島台駅を下車してからの行動に関する供述

(2) 瓦工場での休憩に関する供述

(3) 割山の山道に関する供述

(4) 小原方の内部の状況に関する供述

(5) 薪割の置いてあった場所に関する供述

(6) 被害者らの寝ていた順序等に関する供述

(7) 被害者の頭部に何か掛けたという供述

(8) 放火材料に関する供述

(9) 放火場所に関する供述

(10) 出火を確認するまでの時間に関する供述

(11) 返り血の付着した程度に関する供述

(12) 大沢堤で着衣の血痕を洗い落としたという供述

(13) トラックの通過した事実等に関する供述

(14) 杉林での休憩に関する供述

(15) 帰宅後着衣を置いた場所に関する供述

(16) 事件当夜の天候に関する供述

(七) 自白の態度

(1) その他の供述

(2) 実況見分時の態度

(3) 夜間検証時の態度

(八) 自白撤回時の態度

(九) 高橋二郎の供述

(一〇) まとめ

(1) 起訴の違法性判断基準

(2) 具体的検討

3公訴追行の違法性

(一) 検察官の証拠調請求義務について

(二) 証拠評価に関する弁論について

四請求原因5(裁判所の職権行使の違法)について

1争訟の裁判についての違法性判断基準

2検討

五結論

原告

甲野一夫

原告

甲野春子

右両名訴訟代理人弁護士

島田正雄

青木正芳

袴田弘

佐藤唯人

西口徹

高橋治

佐川房子

岡田正之

阿部泰雄

佐藤正明

犬飼健郎

増田隆男

被告

宮城県

右代表者知事

本間俊太郎

右訴訟代理人弁護士

小野由可理

八島淳一郎

東海林行夫

右指定代理人

佐藤勝成

外一一名

被告

右代表者法務大臣

左藤恵

右指定代理人

榎本恒男

外三名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは連帯して、原告甲野一夫に対し一億一〇〇〇万円、原告甲野春子に対し三三〇〇万円及び右各金員に対する昭和五九年七月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

(被告県)

主文同旨

(被告国)

1 主文同旨

2 仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

(一) 原告甲野一夫(以下「原告一夫」という。)は、昭和六年三月一六日生の男子であり、原告甲野春子(以下「原告春子」という。)は、明治四〇年三月二〇日生の女子で、原告春子は亡夫虎治との間に九人の子をもうけたが、原告一夫はその二男である。

(二) 被告宮城県は、宮城県公安委員会を設置し、宮城県警察を管理させており、宮城県警察の行う捜査等の活動について責任を負う立場にある。

(三) 被告国は、検察官の行う捜査及び訴追、裁判所の行う裁判について責任を負う立場にある。

2  再審無罪判決確定に至るまで

(一) 昭和三〇年一〇月一八日未明、宮城県志田郡松山町長尾字氷室一四〇番地小原忠兵衛方居宅が全焼し、焼け跡から小原忠兵衛、その妻嘉子、四女淑子及び長男雄一の焼死体が発見され、その死体のいずれにも頭部に頭蓋骨骨折を伴う割創が認められたことから、殺人、放火事件の疑いで捜査が開始された(以下この事件を「松山事件」という。なお、原告一夫を右事件の被疑者、被告人とする強盗殺人、非現住建造物放火被疑事件または同被告事件を松山事件と呼ぶこともある。)。

(二) 原告一夫は、昭和三〇年一二月二日、宮城県警察本部の司法警察員により、東京都内の住込勤務先から警視庁板橋警察署に任意同行を求められ、同署において別件傷害事件の嫌疑で逮捕され、同夜護送を受け、同月三日以後、宮城県警察古川警察署留置場に留置され、同月五日、右傷害の被疑事実で勾留されたが、同月八日、松山事件の嫌疑で逮捕、勾留され、同年一二月三〇日、松山事件を公訴事実として、仙台地方裁判所古川支部に起訴された。

(三) 右事件につき、仙台地方裁判所古川支部は、昭和三二年一〇月二九日、死刑判決(以下「確定第一審判決」という。)を言い渡し、仙台高等裁判所は、昭和三四年五月二六日、原告一夫の控訴を棄却し(以下「確定控訴審判決」という。)、最高裁判所第三小法廷は、昭和三五年一一月一日、原告一夫の上告を棄却し(以下「確定上告審判決」という。)、判決訂正申立ても却けたので、右死刑判決は同月二四日に確定した。

右確定判決において認定された犯罪事実は次のとおりである。

「被告人は、昭和二十年三月本籍地の国民学校高等科を卒業、翌四月宮城県遠田郡南郷村立南郷農学校に入学したが、間もなく終戦となり学業に興味を失い同年八月ごろ退学して、同県志田郡鹿島台町所在の関口製材所、渡辺製材所などに製材工として働き、昭和二六年秋ごろ父甲野虎治が同町内で移動製材業を開業したので、右渡辺製材所をやめ、その後引き続き父の移動製材業を手伝い、その間約半年ぐらいずつ岩手県釜石市で「とび」仕事をしたり、東京都足立区でトラックの運転助手をしたりしたほかは家業の製材業の手伝いに従事していたのであるが、十七、八歳ごろから酒を飲みならい、しだいに飲食店などでの飲酒の度を加え、両親から受ける数千円の小遣銭では遊興の資を充すのに足りず、着用していったオーバーコート、雨合羽などや乗っていった父虎治所有の自転車まで飲食代の「かた」に置いてきたり、二、三年のうちに約二十回にもわたって父虎治所有の米を持ち出して飲み代に替えたりしたが、昭和三十年十月ごろまでに同町内の飲食店、旅館、酒店、食料品店、知人などに六、七千円の借財がかさみ、とかく小遣銭に窮していたところ、そのころ同町平渡字新屋敷下料理店「二葉」こと菅野重蔵方の女中渡辺夏子に愛着を覚え、同女と結婚したいとの望みを抱いたが、同女の雇主菅野からは同女に前借金のあることを聞かされ、母春子には同女と結婚したい旨を打ち明けたうえ、同女が母の気に入ったならば同女との結婚を許してもらいたい旨懇請し、母に前記菅野方を訪ねてもらったけれども、母の賛成するところとならなかったので、周囲の反対を押し切り家出しても夏子といっしょになろうとまで思い、焦燥の念に駆られており、かれこれ金銭の入手に苦慮していたおりから、

第一  昭和三十年十月十七日午後四時ごろ同町内で友人加藤浩と出会い、同人からさきに被告人らと料理店「二葉」で飲食した際の飲食代として同人が預り保管していた柔道大会の前売券代金二千円を費いこんで、他から一時借り受けその穴埋めをしておいた金の返済が延引しているため、ふたりの所有物を出し合い入質して金策したいと誘われ、被告人はスプリングコートを持ち出し、右加藤と午後七時二分東北本線鹿島台駅発下り列車で遠田郡小牛田町に赴き、同町小川質店に両人の衣類数点を入質したあと、加藤が同質店から受け取った二千五百円のうちから、小牛田駅前の屋台店で清酒、焼ちゅう取りまぜコップで三、四杯を飲んだうえ、同町に泊ってゆくという加藤と同駅前広場で別れ、被告人は午後九時四十九分発上り列車で、午後十時過ぎごろ鹿島台駅に下車し帰途に就いたが、その途中前日(十月十六日)の午前九時ごろ志田郡松山町氷室字新田百四十番地小原忠兵衛の妻よし子が、被告人方庭先で材木を買い取っていったことを想い起し、同人方で普請をするのなら二、三万円の金はあるに相違ないから同人方の寝静まるのを待って同家に押し入り金員を盗み出そうと考え、自宅には帰らず自宅附近の株式会社東日本赤瓦製造工場東北工場内で休息しながら時間をつぶし、翌十八日午前三時半ごろ前記小原忠兵衛方に赴き、電灯の点じられていた同家内部の様子をうかがったが、忠兵衛とは顔見知りなので、いっそ一家をおう殺したうえ金員を盗み取ろうと決意し、同家浴場の壁に立てかけてあった刃わたり約八センチメートルの薪割り一丁(押収目録番号二はその刃の部分)を携え同家八畳の寝室に至り、まくらを列べて熟睡中の主人忠兵衛(当時五十三年)、ついで妻よし子(当時四十二年)、長男優一(当時六年)、四女淑子(当時九年)の各頭部を順次右薪割りで数回切りつけ、忠兵衛を頭部右側の割創による脳障碍により、よし子を第四脳室の出血と脳震蘯により、優一を脳障碍(あるいは失血)により、淑子を頭部後側の割創による脳障碍により、いずれもそのころその場で死亡させて殺害したうえ、右寝室内にあったタンスを開いて金員を物色したけれども、現金が見付からないため、金員強取の目的を遂げなかったが、

第二  その直後、右現場をそのままに放置しておくときは、証拠が残るから右犯跡を隠ぺいするため、同家屋に放火して、これを焼き払ってしまおうと決意し、同家木小屋から枯杉葉一束を持ち出してきて忠兵衛ら夫婦の死体の頭部あたりに置き、さらに同家入口附近にあった木くず容りの木箱をもってきて木くずを右杉葉のあたりにまき散らしたうえ、所携のマッチで枯杉葉に点火して発火させ、よって同十八日午前四時ごろ人の現住しない右小原忠兵衛の所有していた約十坪五合の木造わらぶき平屋建家屋一むねを全焼させ

たものである。」(なお、右第一の事実中、「はるこ」は「春子」が、「よし子」は「嘉子」が「優一」は「雄一」がそれぞれ正しい。)

(四) 原告一夫は、右判決につき、昭和三六年三月三〇日、仙台地方裁判所古川支部に対し再審請求(以下「第一次再審請求」という。)を申し立てたが、これは、昭和三九年四月三〇日に棄却され、これに対する即時抗告とその後の特別抗告も棄却された。

(五) 原告一夫は、更に、昭和四四年六月七日、仙台地方裁判所古川支部に再審請求(以下「第二次再審請求」という。)を申し立て、これは昭和四六年一〇月二六日に棄却されたが、昭和四八年九月一八日、仙台高等裁判所において、即時抗告の申し立てが認められ、仙台地方裁判所に差し戻され、あらためて審理を尽くした結果、昭和五四年一二月六日、再審開始の決定がなされ、検察官の即時抗告も昭和五八年一月三一日に棄却されて、同年二月六日、右再審開始決定が確定した。

(六) 再審公判は、仙台地方裁判所第二刑事部担当で開かれ、昭和五八年七月一二日の第一回公判から八回の公判と検証、出張尋問等を行ない、昭和五九年七月一一日の第九回公判において、原告一夫に対し無罪の言渡しがなされ、併せて行われた拘置の執行停止決定により釈放され、右判決は、検察官の控訴申立てがなく、同月二六日確定した。

3 宮城県警察の行った捜査の違法性

宮城県警察職員(以下、松山事件の捜査に当たった警察職員を特に「捜査員」という。)は、次のような違法な捜査活動を行い、原告一夫を被疑者として違法に拘束したばかりでなく、右違法な捜査活動により誤った起訴及び誤った判決をもたらした。

(一) 傷害事件による逮捕の違法性

捜査員が原告一夫に対して行った昭和三〇年一二月二日の逮捕は、次の点において違法である。

(1) 別件逮捕の違法性

右逮捕は、もっぱら松山事件についての自白を得ることを目的としつつ、別件である傷害被疑事件を理由として行われたものであるから、それ自体身柄拘束に関する令状主義を潜脱する違法な別件逮捕であったうえ、松山事件の捜査に行き詰まっていた捜査員が、嫌疑もないのに原告一夫を犯人と見込みをつけて行なったものであるため、これが無理な取調べを招き、原告一夫に虚偽の自白をさせることとなり、ひいては誤判の原因となった。

(2) 逮捕状請求書への虚偽記載

右逮捕にかかる逮捕状請求当時、捜査員は、原告一夫の生年月日、職業及び住居を知っていたのに、逮捕状請求書の被疑者欄に「年令二四年位、職業不詳、住居不定」と記載し、逮捕の必要性について「被疑者が逃亡中であるため」と記載するなど、虚偽の事実を記載して逮捕状の発行を得た。

(二) 高橋二郎を同房させたこと等の違法性

次の事実によれば、捜査員が高橋二郎をして留置場内における原告一夫の動静を監視させ、さらに右高橋をして原告一夫に自白を示唆させたことを推認でき、これら違法な措置は、原告一夫に虚偽の自白をさせる一原因となった。

(1) 捜査員は、原告一夫を逮捕した後、昭和三〇年一二月三日から同月一〇日までの八日間、古川警察署留置場において、同所に逮捕勾留されていた高橋二郎と同房させ、房内における原告一夫の言動のみを内容とする供述調書六通を高橋から録取し、高橋はこれに積極的に協力した。

(2) 高橋は、当時前科四犯であったが、その前科のうち二件は古川簡易裁判所に、一件は仙台地方裁判所古川支部に係属した事件であり、古川警察署にとっていわば馴染みの人物であった。

(3) 否認している重大事件の被疑者を他の被疑者と同房させることは、当時異例の措置であったばかりでなく、高橋は当時横領等被疑事件の被疑者であり、被疑事実を一部否認していたから、逮捕歴のない原告一夫と同房させるには不適当な人物であった。

(4) 高橋は、原告一夫に対し、「未決は暖かい。」、「(松山事件の刑期は、)四、五年ですむだろう。」、「警察に来たらやらないこともやったことにして裁判の時に本当のことを言えばいい。」などと言って自白を示唆した。

(三) 取調べの方法、態様の違法性

捜査員は、次のような違法な取調べを行い、前記高橋二郎による自白の示唆とあいまって、原告一夫に虚偽の自白をさせる原因となった。

(1) 深夜に及ぶ長時間連続の取調べ

(2) 複数捜査員による自白の強制

原告一夫は捜査員三人掛りの取調べを受け、同人が「やらない。」というと、捜査員は「いつまでも出られない。やったと言え。」などと怒鳴り、原告一夫の額を小突き、肩を押すなどして自白を強要した。

(3) 偽計による取調べ

捜査員は、原告一夫の家族の供述から、同人が松山事件発生の晩、自宅に帰っていたらしい事実を把握していたのに、「家では帰っていないと言っている。」などと偽って原告一夫のアリバイ主張を封じ、混乱させた。

(4) 誘導による取調べ

凶器の置いてあった場所、犯行時の着衣を帰宅後置いた場所についての供述等、重要な事実についての原告一夫の供述が変遷しているのは、捜査員の誘導により生じたものである。

(四) ジャンパー、ズボンの非科学的処理

原告一夫が仮に松山事件の犯人であるとすれば、犯行時の同人の着衣は本件ジャンパー(昭和三〇年一二月三日原告一夫の実家から押収された鼠色ジャンパー)及び本件ズボン(同月二日東京都板橋区の山本文子方から押収された薄茶色ズボン)であると認められるところ、原告一夫の自白によれば、「犯行後現場から逃走する途中、両手がズボンに触ったらヌラヌラとしたので被害者の返り血が付着していることに気付いた。」というのであり、返り血が多量に付着したことになっているのに、宮城県警察本部鑑識課技術吏員平塚静夫による鑑定(その結果は昭和三〇年一二月二二日付鑑定書として作成された。以下「平塚着衣鑑定」という。)によれば、本件ジャンパー、ズボンに血痕の付着は認められないという鑑定結果が出たのであるから、右鑑定結果は右自白と明らかに矛盾することになり、警察職員は右自白の虚偽であることを知りうべきであったのに、それぞれ二回洗濯されたから血痕反応が消失したと科学的根拠なしに判断した。

(五) 掛布団襟当の血痕の偽造

昭和三〇年一二月八日に原告一夫の実家甲野常雄方から押収された掛布団(以下「本件掛布団」という。)の襟当には、東北大学医学部法医学教室助教授三木敏行による鑑定(その鑑定結果は昭和三二年三月二三日付鑑定書として作成された。以下これを「三木鑑定」という。)の結果、A型の人血が多数の血痕斑として付着しているとされ、この血痕群は、捜査、公判を通じて、松山事件犯行時に原告一夫の頭髪に付着した被害者の返り血が二次的に、ないし頭髪からさらに手指を介して三次的に付着したものと判断された結果、原告一夫を有罪と認定する有力な証拠とされたが、次の事実によれば、この血痕群は警察職員が原告一夫の自白を補強する物証を作るために偽造したものであることを推認できる。

(1) 襟当の血痕は被害者の返り血ではないこと

ア 本件掛布団は、事件当時原告一夫の弟彰が使用していたものであり、原告一夫が使用していたものではない。

イ 仮に本件掛布団が原告一夫が使用していたものであるとしても、

(ア) 一家四人を薪割で殺害した犯人であれば、着衣等に相当多量の返り血を浴びたと考えられるところ、原告一夫が本件に関与していたならば犯行時に着ていたはずの本件ジャンパー、ズボンには、当初から血痕の付着したことはなかったと認められるのであるから、犯行時、着衣に付着しなかった返り血が頭髪にのみ付着したということは考えられず、したがって頭髪に付着した血液が直接、又は手指を介して掛布団襟当に付着したという推論は成り立たない。

(イ) 原告一夫の自白によれば、犯行後二時間半くらい経過した後に就床したというのであるが、それまで頭髪に付着した返り血が頭髪から襟当に二次的ないし三次的に付着するほど乾燥せずに水分を保持し続けるものか疑問があるうえ、襟当の血痕群の付着状況は、襟当の左右両端部に多く、その表側にも付着しているというのであるから、就床中の頭髪から直接、又は手指を介して付着したというような態様の付着状況ではない。

(ウ) 仮に頭髪に付着した返り血が掛布団襟当に多数かつ広範な血痕斑として付着したのであれば、他の寝具や掛布団本体にも同様に付着しているべきところ、犯行当時原告一夫が使用していたものとして押収された敷布からは血痕は検出されず、また掛布団の襟当以外の本体部分からも血痕は検出されていない。

(エ) 原告一夫が仮に犯人であるとすれば、証拠が残らないように注意するはずであるが、松山事件発生後、少なくとも東京へ家出するまでの一〇日間、原告一夫は本件掛布団を使用していたはずであり、仮に襟当に多数の血痕が付着していたのであれば、その間これに気付かないはずはなく、これに気付きながら放置しておいたとも考えられない。

(オ) 少なくとも原告一夫が東京へ家出した後の約四〇日間、本件掛布団は弟彰が使用していたのであるから、その間彰が血痕の存在に気付かなかったということも考えられない。

ウ 以上を総合し、加えて、そもそも後記のように原告一夫の自白は虚偽であり、原告一夫は無実であることを考え併せると、襟当の血痕は被害者の返り血ではありえない。

(2) 平塚掛布団鑑定をめぐる疑惑

ア 掛布団の移動、保管に関する疑惑

三木助教授は、昭和三〇年一二月九日、本件掛布団について血痕付着の有無等に関して鑑定を嘱託され、同日本件掛布団を受領し、前記三木鑑定書を作成したが、鑑定書作成に至るまで本件掛布団は終始三木の研究室の戸棚の中に保管されていたはずであるのに、その後、昭和三〇年一二月二八日付宮城県警察本部鑑識課技術吏員平塚静夫作成の鑑定書(以下「平塚掛布団鑑定書」という。)の存在が明らかとなり、その記載等から、昭和三〇年一二月一二日から二二日ころ、本件掛布団が警察職員により外部に持ち出されていた事実が明らかとなった。右平塚掛布団鑑定書等は、第二次再審請求事件において提出された公判不提出記録の中から初めてその存在が明らかとなったものであるうえ、右平塚掛布団鑑定にかかる掛布団の移動、保管に関して関係者は合理的な説明をすることができず、極めて不自然であり、掛布団に対する何らかの工作を窺わせるものである。

イ 平塚掛布団鑑定の結果

平塚掛布団鑑定は、三木鑑定についての鑑定嘱託事項と同じ事項について鑑定嘱託がなされているところ、掛布団には血痕付着が認められないという鑑定結果が出ており、この鑑定当時、鑑定書添付写真から明らかなように、襟当は掛布団から取り外されていなかったのであるから、右鑑定結果は襟当についても血痕の付着がなかったことを意味するものと考えられる。

ウ 平塚掛布団鑑定書添付写真

三木鑑定書によれば、昭和三〇年一二月一二日、三木は襟当の血痕の陳旧検査を行い、そのために襟当の一部を切り取ったはずであるのに、平塚掛布団鑑定書の添付写真によれば襟当には切取りが認められないのであり、したがって平塚が右鑑定を行った際には切取りがなかったと認められるのであるから、三木による右陳旧検査の日付は虚偽である可能性が高く、三木鑑定書の信用性が疑われ、右一二月一二日ころ襟当に三木鑑定書記載のような多数の血痕群が存したと認めることはできない。

なお、三木鑑定書には、同時に鑑定した男下駄及び敷布の写真が添付されているのに、最も重要であるはずの本件掛布団の写真は添付されておらず、不自然である。

(3) 血痕の数に関する疑惑

三木鑑定に付する以前に本件掛布団の血痕を見た警察職員らの証言によれば、血痕様斑痕の数についての印象は「あまり多くない」というものであったのに、三木鑑定によれば、八〇余り存するという鑑定結果となっており、不自然である。

(4) 捜査差押調書添付写真の疑惑

ア 本件掛布団押収時に撮影されたとされている捜査差押調書添付の襟当の写真には、斑痕が一つしか写っておらず、三木鑑定書の肉眼検査の結果として襟当に多数の斑痕が認められたという記載と矛盾している。

イ また、右アの点をさらに究明するために、第一次再審請求抗告審以来、右写真のネガの提出が求められているのに、警察職員は、松山事件関係の他の写真のネガは現存するが、右写真のネガだけは紛失したらしく見当らないといって提出しないという不自然な態度をとり続けてきたのであるから、右写真が掛布団押収当時に撮影されたものであるか極めて疑わしく、右写真に写る一つの血痕様斑痕についても、押収当時の掛布団襟当には存在しなかったのではないかという疑いが強い。

(5) 血痕を家族や原告一夫に確認させていないこと

ア 掛布団押収の際、襟当に血痕が発見されたのであれば、捜査員としては、証拠保全の観点から、まず押収に立ち会った家族にこれを示して確認させるべきであったのに、確認させていない。

イ 本件掛布団押収後、捜査員としては、原告一夫にこれを示して、同人の掛布団であること及び血痕群の存在について確認を得るべきであったのに、確認を得ていない(原告一夫の弟達が使用していたものとして押収された別の掛布団二枚については、勾留中の原告一夫に示している。)。

(6) 枕、枕カバーが押収されていないこと

掛布団襟当に多数の血痕群が付着しており、かつそれが原告一夫の頭髪から移転し付着したものと考えられたのであれば、押収に当たった捜査員らは当然、枕、枕カバーについても血痕が付着しているものと考えたはずであり、これらを押収すべきであったのに、捜した形跡もない。

(7) まとめ

右(1)ないし(6)の事実を総合し、襟当に血痕が付着する原因として他に合理的な説明が付かない以上、この血痕は、当時原告一夫の曖昧な自白以外に確たる証拠を得られず、物証を求めて躍起となっていた警察職員が偽造したものとしか考えられない。

(六) 捜査員らは原告一夫が真犯人でないことを知っていた

次のような事実からすれば、捜査員らは原告一夫が真犯人でないことを知っていたはずであるのに、事件を迷宮入りさせたくないばかりに原告一夫の無実の主張には全く耳を貸そうとせず、誤判の原因となる捜査活動を遂行した。

(1) アリバイ

原告一夫は逮捕された当初、事件当夜は家に帰って寝ていたと供述していた。原告一夫の兄常雄は、事件当夜原告一夫が帰宅したらしい物音を聞き、事件の朝四時ころには、原告一夫が家で寝ているらしい様子を目撃したと供述していた。また、同じく朝四時ころから目を覚まして以後寝付けないでいた兄嫁美代子は、その後原告一夫が帰宅した様子がなく、原告一夫はその日朝八時ころ起床したと思うと供述していた。

すると、原告一夫は遅くとも午前四時前には帰宅していたことが認められるのに、捜査員はこれらアリバイを無視した。

(2) 動機

捜査員は、原告一夫が飲食店等に借金があり金に困っていたところ、小原嘉子が同人方に材木を買いに来たのを見て、小原方で普請をしていることを知り、普請をするからには小金があるのだろうと考えたということに犯行の動機を設定していた。

しかし、当時原告一夫の借財は九件で合計八〇四〇円であり、いずれも強く返済を求められていたものではなく、また同原告の呑気な性格や当時の実家の経済状態等から考えて、殺人を犯してまで小遣銭を得なければならない状況にはなかった。

また、小原嘉子が原告方に材木を買いにきた一〇月一六日午前一〇時ころ、原告一夫は出掛けて家におらず、そのため小原方が普請中であることを知らなかったと考えられ、かつ、小原方は部落の中でも貧農の部類に属する家であったから、原告一夫が物盗り目的で小原方に狙いをつけるのは不自然であった。

さらに、原告一夫の自白によれば、「顔を見られるとまずいと思って寝ている四人を殺してから盗もうと思った」というのであるが、被害者らに顔を見られない段階で一家四人の殺害を決意したというのも不自然であった。

しかるに捜査員は、右のような動機の不自然性を無視した。

(3) 事件後の行動

ア 原告一夫は、事件のあった昭和三〇年一〇月一八日は、午前八時ころ起きて、九時ころからは前から頼まれていた佐藤方における土盛り工事に兄常雄たちとともに従事し、午後からはその仕事を抜け出して遊びに行き、その日の晩にも、翌一九日晩にも鹿島台町内の飲食店で知人らと酒を飲んでいる。これら一連の行動には普段と全く変わったところがなく、一八日早朝に松山事件を敢行し、一七日の晩から一睡もできなかった者の行動とは考えにくい。

イ 原告一夫が上京したのは、同年一〇月二五日晩に友人金澤定俊とともに実家から米を盗み出して他へ売却したところ、これを知った父虎治の怒りを買い、実家に帰りにくい状況になったことから、東京に行って働こうという金澤の提案に乗ったというのが発端である。二六日に東京へ行くと決めてからは、持って行く荷物を取りに帰宅した際には兄嫁美代子に対して「東京へ行く。」と告げたり、友人上部孝志のもとへ孝志の姉上部道子の東京における住所を聞きに行ったりしており、駅頭で出会った門間先生からは餞別まで貰っている。さらに東京に着いてからは、知人の所を訪問したり、実家に郵便で所在を知らせるなどしており、全く松山事件の捜査から逃れる目的で上京したような行動は窺われない。

(4) 平塚着衣鑑定の取扱い

前述のとおり、平塚着衣鑑定によれば、ジャンパー、ズボンに血痕の付着はなかったのであり、その事実の重要性からすれば、その理由を究明すべきであった。捜査員らはそれらが事件後にそれぞれ二回洗濯されたために血痕反応が陰性になったと説明しようとしたと考えられるが、平塚らの学識経験を利用すれば、捜査員らはそのような説明が科学的に成り立たないことを容易に知りえたと考えられるし、仮に知らなかったとしても、それが可能な推論であるかを容易に鑑定できることであるのにこれを怠った。

また、原告一夫は、昭和三〇年一二月一五日の晩、いわゆる否認の手記を作成して、自白が虚偽である旨を亀井警部らに訴えたが、その中で原告一夫は、本件ジャンパー、ズボンには血痕付着はなかったはずであると断定的に訴えており、そのように訴えることができる理由を考察すれば、容易に自白が虚偽であることが理解できたはずである。

(5) 小原方の電灯に関する供述及び捜査

小原方の電灯引込線は、人為的切断のように切断されており、捜査本部では事件当夜小原方電灯が消えていたという情報も入手していた。しかるにこのことについての捜査を不徹底のまま、原告一夫からは「小原方の電灯は点いていたようで」という曖昧な供述を引き出した。

(6) 自在鉤に関する供述及び捜査

原告一夫の自白によれば、小原方の切炉の上には自在鉤が掛かっていたとのことであり、捜査員が右自白に基づき現場を捜索した結果、切炉跡付近から鉄製自在鉤が発見されたことになっている。しかし、事件発生直後の綿密な実況見分においてこの自在鉤が発見されなかったとは考えられず、しかも関係者の供述によれば、事件当時切炉の上にこの自在鉤は掛かっていなかったと認められるのであるから、捜査員は、既に別の場所において発見されていた自在鉤を、秘密の暴露を仮装するために活用すべく、原告一夫を誘導して右のような自白を得、かつ虚偽の捜査報告書を作成したものと考えられる。

(7) 殺害方法に関する供述

殺害方法に関する原告一夫の自白は、被害者らの寝ていた姿勢及び加害部位に限って詳細かつ具体的で、興奮状態にあったはずの者の供述としては不自然であり、また、被害者四名の死体鑑定書から認められる受傷部位に対応しており、これは捜査員の誘導によるものと推認できる。また殺人という異常な行為をする際には、平常心ではありえなかったはずなのに、殺害行為時の感情の動きについてはまったく触れておらず、具体性を欠いている。

(8) 被害者の反応に関する供述

被害者らは、畳を剥がした板張りの上に敷布団を敷いて寝ていたのであるから、薪割で四人の頭部に数回ずつ切り付ける殺害方法によれば、被害者の一人に対し薪割を振り下ろした音ないしは衝撃により他の被害者らが目を覚まさなかったとは考えにくく、四人を無抵抗のまま、あるいは特別な反応のないまま殺害することは非常に困難であると考えられるのに、この点に関する原告一夫の自白は、「夢中であったのでよくわからない。」とか「一人か二人かがううんといったうなり声を立てたように思います。然し、そのうなり声もあまり高いものではありませんでした。」という真犯人であればありえないほど曖昧なものであり、このように曖昧な供述となったのは、客観的な裏付証拠のないことがらであったため、捜査員が積極的な誘導を行うことができなかったからであると考えられる。しかし、同時にこれが経験者でなければ述べ得ないことであるかのような供述となっているのは、その限度では捜査員の誘導によるものと考えられる。

(9) 木小屋、杉葉束に関する供述

原告一夫の自白によれば、小原方の傍らに木小屋があり、その中に杉葉束があったのでこれを放火材料に使用したとのことであり、捜査員が右自白により現場を見分したところ、木小屋の存在及びその中の杉葉束の存在が明らかになったことになっているが、実際には、事件直後の実況見分等により、捜査員は右事実を既に知っていたのであり、原告一夫を誘導して右のような自白を得たものである。

(10) 現場から発見された物

小原方焼け跡の実況見分調書によれば、金槌が六畳間に、鉈が縁側に、血痕の付着した提灯が忠兵衛の頭近くの押入前に、アルミ製弁当箱が提灯の傍に、薬瓶が忠兵衛と嘉子の間に、千円札五枚が箪笥と米麦入の押入前に半焼して、それぞれ散乱していたのであるから、これらの物は被害者の抵抗を窺わせるなど犯行と何らかの関係があると考えられ、又は真犯人であればその存在を記憶している物であると考えられ、特に薬瓶については農薬の空き瓶と認められたため、大量の捜査員を投入して捜査した経緯があるのに、これらの物について原告一夫の自白中には全く触れられていない。これは、原告一夫の自白が虚偽であると疑った捜査員が、これらの物について供述を求めようとすると自白を根底から覆すような内容の返答があることを怖れて、ことさら触れようとしなかったものと考えられる。

(11) トラックの通過した事実に関する供述

原告一夫の自白によれば、原告一夫が犯行後大沢堤でジャンパーとズボンを洗濯した際、トラックの走り来る音を聞き、目撃されるのを恐れて杉林の中に逃げ込んだとのことであり、捜査員が右自白に基づき捜査した結果、丁度そのころ、鳥海、村上両名が乗り白菜を積んだトラックがその付近を通過した事実が判明したことになっているが、当時連日のようにその時刻ころその付近を右トラックが通過していたことは付近住民のよく知っていたことであり、しかも、右両名はトラック乗車中に小原方の火災を最初に発見し、付近住民に警笛で知らせるなどしたのであるから、付近住民に徹底した聞き込み捜査を行っていた捜査員らが原告一夫に対する取調べ以前に右事実を知らなかったとは考えにくく、捜査員が秘密の暴露を仮装するため、原告一夫を誘導して右のような自白を得たものと考えられる。

(12) 杉林での休憩に関する供述

原告一夫の自白によれば、犯行後、着衣を大沢堤で洗濯した後、杉林で約二時間隠れて休憩していたというのであるが、一〇月中旬の明け方に冷たく濡れたジャンパー、ズボンを着て二時間も杉林に隠れていたというのは全く非現実的であり、捜査員は右自白の虚偽であることを容易に知り得たはずである。

また殺人を犯した者であれば、このような場合、悔悟の念や、死者に対する恐怖等の感情に襲われるはずであるのに、全くそのような感情の動きは表現されておらず、具体性を欠いた供述となっており、到底経験者の供述とは思われない。

4 検察官の職務執行の違法性

(一) 捜査段階における職務執行の違法性

松山事件の捜査段階において、検察官は、次のような違法な職務を執行した。

(1) 別件逮捕勾留の違法性

検察官は、警察の捜査会議に出席して、前記3(一)のとおり傷害被疑事件による逮捕(昭和三〇年一二月二日)が、見込み捜査に基づく、その理由も必要性もない違法な別件逮捕であることを知っていたのに、これを容認し、原告一夫が逃走目的で上京したのではなく、右傷害被疑事件は示談解決済みであるか仮に示談未成立であったとしても罰金刑程度の事案であって、勾留の必要性のないことを知りながら、原告一夫を勾留請求し、警察職員とともに、右逮捕勾留による身柄拘束を専ら松山事件についての取調べに利用した。

(2) 松山事件による逮捕勾留の違法性

検察官は、本件である松山事件を理由とする逮捕状請求(昭和三〇年一二月八日)を容認し、勾留請求(同月一一日)及び勾留期間延長請求(同月二〇日)を行なったが、これらは次のような当時の証拠状況に鑑み理由のない違法な令状請求であり、これら令状に基づく原告一夫の身柄拘束もまた違法であった。

ア 原告一夫は、一二月六日にいったん自白したが、右自白を維持したのは、高橋二郎と同房させられていた五日間とその後の五日間だけであり、自白を裏付ける客観的な証拠は何もなく、同月一六日以降は犯行を否認し、無実を主張していた。

イ 既に一〇月二六日には薪割について血痕反応なしとの平塚技師による鑑定(以下「平塚薪割鑑定」という。)の結果が、一二月一二日には本件ジャンパー、ズボンについて血痕反応なしとの平塚着衣鑑定の結果が、一二月二三日には本件掛布団裏に血痕反応なしとの平塚掛布団鑑定の結果がそれぞれ報告されており、いずれも原告一夫の自白に矛盾するものであった。

(二) 公訴提起の違法性

検察官は、昭和三〇年一二月三〇日、原告一夫を強盗殺人、非現住建造物放火の事実(松山事件)で起訴したが、その当時の証拠状況は次のとおりであったから、右起訴は、有罪判決を期待しうる合理的根拠のない違法なものであった。

(1) アリバイ

前記3(六)(1)に同じ。

(2) 動機

前記3(六)(2)に同じ。

(3) 荒井丹羽口鑑定の評価

荒井晴夫、丹羽口徹吉による共同鑑定によれば、本件薪割の表面に残る条痕は、毛髪が血液によって粘着された後に摂氏三〇〇度ないし三五〇度の加熱を受けたものに酷似する旨の鑑定結果が出ていたが、本件薪割に加わった温度が何度くらいであったかについての科学的裏付けは行われていなかったのであるから、本件薪割が凶器であったという原告一夫の自白は右荒井丹羽口鑑定により裏付けられたと評価することはできなかった。

また、被害者らの頭部創傷から凶器を推定する鑑定は、起訴当時結論が出ていなかったから、頭部創傷から薪割を凶器であると推定することもできなかった。

仮に右荒井丹羽口鑑定が原告一夫の自白に符合するものと評価できるとしても、右鑑定結果は、原告一夫を逮捕する以前に出ており、薪割は凶器である可能性が最も高いと考えられていたのであるから、原告一夫の自白の信用性を裏付ける証拠とは言えなかった。

(4) 平塚着衣鑑定の評価

平塚着衣鑑定の結果及び原告一夫の否認の手記によれば、検察官は本件ジャンパー、ズボンに当初から血痕が付着しておらず、原告一夫が返り血を浴びていない事実を知り得たはずであり、洗濯により血痕反応が消失するか否かについて鑑定嘱託を行わなかったのは、このことを裏付けるものである。

(5) 三木鑑定の評価

三木鑑定の結果は、その見通しについて電話連絡があっただけの状態だった。

(6) 捜査の不十分

ア 現場で発見された薬瓶は、農薬パラチオンの空き瓶であると認められ、犯行との関連性が疑われたことから、多数の捜査員が不眠不休の捜査に当たった経緯があるのに、原告一夫の自白はこのことにまったく触れていない。

イ 現場で発見された千円札五枚は、物盗り目的で侵入した原告一夫が気付かなかったとすれば不自然である。

ウ 小原方の電灯引込線が切断されていたのに、その切断原因について科学的究明がなされた形跡がない。

エ 掛布団の襟当に血痕が存在したなら、原告一夫が使用していた枕、枕カバーも押収すべきであったのにこれを行っていない。

(7) 自白の内容

ア 客観的事実に符合する自白

以下の事実についての自白は、他の証拠から客観的事実に符合すると認められるものであるが、いずれも原告一夫が自白する以前に捜査員が知っていたか、知ることが可能であった事実であり、自白の信用性を基礎付けるものではない。

(ア) 小原方の内部の状況の概要

(イ) 被害者四名の寝ていた顔の向き

(ウ) 被害者の頭部に何か掛けた事実

(エ) 杉葉などの放火の材料

(オ) トラックの通過した事実

(カ) 半鐘とサイレンの鳴ったこと

イ 自白に基づいて明らかになった事実

以下の事実は自白により明らかとなったとされる原告一夫の行動についての事実であるが、いずれも土地勘のある原告一夫が想像によって述べることのできた事実であり、これらを裏付ける客観的証拠はなく、信用性を基礎付けるものということはできず、むしろそれらの供述は具体性、現実性に乏しく、信用性を疑わせるものである。

(ア) 犯行前に瓦工場で休憩した事実

(イ) 犯行現場までの往復経路

(ウ) 大沢堤で着衣の血痕を洗い落した事実

(エ) 杉林で休憩していた事実

ウ 自白の変遷

以下の事実についての自白は、経験者にありえない変遷を示している。

(ア) 犯行現場までの経路(特に瓦工場における休憩の事実)

(イ) 凶器である薪割の置いてあった場所

(ウ) 放火材料と放火場所

(エ) 返り血の付着の程度

(オ) 帰宅後着衣を置いた場所

エ 当夜の天候についての供述

事件当夜は相当量の降雨があったのに、原告一夫の供述には、全くこのことが触れられていない。

(8) 高橋二郎の供述

高橋二郎の員面調書六通及び同人を取り調べた結果、原告一夫が取調べを受けた当初、松山事件の内容を正確に知らなかったこと、アリバイを追求されて事件当夜の行動を思い出せず混乱していたこと、自白した後も俺はやっていないんだと言っていたこと、高橋が原告一夫に自白を示唆していたことが判明していた。

(三) 公訴追行の違法性

検察官は、起訴後も自己の手元に原告一夫が松山事件の犯人ではないことを裏付ける証拠を所持しながら、これを裁判所に証拠調べ請求することなく、隠匿し、裁判所に取調べを求めた証拠についてはその評価を歪める違法な訴訟活動を行った。

具体的には次のとおりである。

(1) 確定第一審の段階では平塚着衣鑑定を証拠として提出せず、確定控訴審に至って弁護人からの請求により裁判所からの勧告でようやくこれを公判に提出したが、着衣に血液がヌラヌラするほど付着したとすれば、それを洗濯した程度では血痕反応が陰性にならないことを鑑定人に確かめて知っていたにもかかわらず、二回洗濯したから陰性になったという科学的根拠のない主張を行った。

(2) 襟当付掛布団の裏面に血痕反応がない旨の平塚掛布団鑑定は、昭和三一年三月一七日に送検され、その記載内容から、本件掛布団の保管、移動に不自然な点があることを知りえたのであるから、このことと、襟当の血痕の付着状況が不自然であること、襟当以外の掛布団本体にもその他の寝具、着衣等にも血痕付着が認められないこと、本件掛布団の捜索差押調書添付写真には血痕様斑痕が一つしか写し出されていないこと、本件掛布団は原告一夫が使用していたものでない可能性が高いことなどの事実と併せ考え、警察職員により襟当血痕が捏造された疑いのあることを知り得たはずであるのに、この疑惑を解明することなく、むしろ、おって証拠調べ請求する旨表明していた右平塚掛布団鑑定書等を証拠調べ請求しないことにより、右疑惑を隠蔽し、襟当血痕は原告一夫が犯行時に頭髪に浴びた血が付着したものであると主張した。

(3) 確定第一審から弁護人は自白の任意性、真実性を争っていたのに、その任意性、真実性に関して重要な証拠である前記原告一夫の犯行否認の手記や同房者高橋二郎の供述調書等証拠を提出しなかった。

(4) 原告一夫の上京の経緯、上京後の居所を明らかにしていた事実等に関する関係者の供述調書等、原告一夫の無実主張の裏付けとなる証拠を公判に提出せず、むしろ、原告一夫が松山事件による追求を免れるため、友人と実家の米を盗み、父から叱られたことを理由として上京したかのように装ったと事実に反する論告をした。

5 裁判所の職権行使の違法

(一) 確定第一審裁判所

確定第一審裁判所の審理判断には次のような違法があった。

(1) 確定第一審裁判所は、弁護人からの原告一夫に対する接見禁止決定取消申請に答えることなく、判決当日まで接見禁止の措置を継続していたこと、また証拠調べにおいて原告一夫及び弁護人の無罪主張を顧みた形跡が認められないこと等の事実から見て、「やっていない者が自白するはずない」という素人的な予断と偏見をもって審理に臨んだことが伺われ、このような審理態度が誤った判断を招く一因となった。

(2) 原告一夫は前記のように高橋二郎と同房させられていたが、その事実を公正かつ慎重に考慮すれば、原告一夫の自白に任意性がないことは判明したはずであったのに、同裁判所は安易に自白に任意性を認めた。

(3) 前記のように原告一夫の自白の内容は変転極まりなく、秘密の暴露に当たる部分がなく、経験者としての具体性、迫真性のある供述もなかった。しかるに同裁判所は安易に自白の信用性を認めた。

(4) 襟当血痕に関する三木鑑定、古畑鑑定(昭和三二年七月一七日付東京医科歯科大学教授古畑種基作成の鑑定書)については次のような欠陥があったのに、同裁判所はこれを大家の鑑定であるということで、その結果を盲信した。

ア 三木鑑定は、いくつかの斑痕をまとめて、血液か否かの検査、血液型検査を行っており、人血以外の物質により型反応が出た可能性がある。

イ 三木鑑定は、型特異的凝集素吸収試験の結果からはO型血液の存否は全く不明であるにも関わらず、O型血液の存在の可能性について言及しており、一方、型特異的凝集素検出試験の結果からは、O型血液の存在は否定され、AB型血液の存在が推認されるものであったのに、合理的な理由なしに検出試験の結果の信頼性は低いと述べてその結果を鑑定結果として取り上げなかった。これは、被害者らの血液型を知っていた三木が予断をもって鑑定したためである。

ウ 古畑鑑定は、襟当の血痕の付着状況から付着原因を推測することは難しいと言いながら、頭髪からの二次的付着の可能性について言及した。これは、古畑が、原告一夫が犯人であると予断を抱いたことを窺わせる。

エ 古畑鑑定は、型特異的凝集素吸収試験の結果、AB型血液の存在を示す反応を得たのに、結論としては三木鑑定と同じ鑑定結果とした。これも、古畑が予断を抱いていたためである。

(5) 弁護人は、襟当血痕が捜査官による偽造である旨主張しており、血痕の付着状況等からもその事実が判明し、又は少なくとも被害者らの返り血が付着したものではないことが判明したはずであるのに、同裁判所はその究明を怠り、有罪認定の証拠とした。

(6) 原告一夫の自白していた犯行態様からすれば、着衣に返り血が付着することは容易に思い当たることであるのに、同裁判所は原告一夫の着衣に関して注意を払った形跡はない。これを検察官に問い質していれば、平塚着衣鑑定の存在が明らかとなり、原告一夫の無実が明らかとなったはずであって、このような釈明を行わなかったのは、審理不尽というべきである。

(7) 確定第一審判決は、被告人及び弁護人が無罪を主張して争う事件に対する死刑判決であるにもかかわらず、その判決理由において証拠説明を全くしておらず、自らの判断過程を客観的に検証することなく有罪の結論を導き、右判決に対する控訴審による批判的検討を不可能にし、第一審としての役割を果たさず、誤った判決の確定に至る一因を作った。

(二) 確定控訴審裁判所

確定控訴審裁判所の審理・判決には次のような違法があった。

(1) 原告一夫は、同裁判所の被告人質問において、小原方に木小屋の存在したことは取調官の誘導により供述したと弁解していたのに、これを信用しなかったことから窺われるように、同裁判所は原告一夫が嘘を述べているという予断と偏見を抱いていたのであり、これが誤った有罪判断の原因となった。

(2) 確定控訴審裁判所は、次のような非常に不合理な認定をした。

ア 同裁判所は、原告一夫は、六、七千円の借財に窮しており、これが動機の一つであると認定した。しかし、原告一夫は当時月々五〇〇〇円の小遣を貰っていたこと、原告一夫の自白によれば犯行により金員を取得していないというのに、松山事件発生の翌晩も翌々晩も、友人知人と飲食していたことが認められ、右程度の借財に窮していたとはいえなかった。

イ 同裁判所は、原告一夫は「二葉」の女中渡辺夏子に愛着を覚え、同女と結婚するために金銭を必要としており、これも動機の一つであると認定した。しかし、同女との関係は原告一夫の片思いに過ぎなかったうえ、原告一夫が自白していた時期においても、このことが動機であるとは全く言っていなかったのであるから、このことを動機として認定するに足りる証拠はなかった。

ウ 同裁判所は、原告一夫は被害者小原嘉子が原告一夫の実家で兄常雄から材木を購入するのを目撃し、小原方が普請中であることを知り、小金があると考えたことが犯行の直接の動機であると認定した。しかし、原告一夫は小原嘉子を目撃していない可能性が高く、仮に目撃したとしても、同女を小原忠兵衛の妻であると見分けることができたことについての裏付けとなる証拠もなかった。

エ 同裁判所は、原告一夫の自白が経験者でなければよく述べ得ないことを供述しているという。しかし、同裁判所がそのような供述として指摘する部分は、次のように経験者でなければ述べ得ないものではない。

(ア) 瓦工場の窯の中での休憩について

犯行当夜、鹿島台駅を下車してから小原方まで行く途中、瓦工場の窯の中で三時間余り休憩したという原告一夫の自白は、下車後、犯行までの時間の空白に気付いた捜査官が誘導したものである疑いがあり、また、かつて窯の中で遊んだ経験を持ち、付近の地理にも詳しい原告一夫にとって、そこは犯行までの時間調整の場所として想像によっても説明できる場所である。しかも、かなり酩酊していたという原告一夫がそこで長時間休憩していたということ自体不自然であって信用性を疑わせる。

(イ) 被害者方への往復経路について

原告一夫の自白により小原方への往復経路であるとされた割山の手前から入る山道は、原告一夫が小原方のある新田部落へ行く際、いつも通っていた道であり、原告一夫としては犯人であれば通るであろう道として最初に思い付く道であるということができる。

(ウ) 被害者方玄関、電灯、障子などの様子について

これらに関する原告一夫の自白は、自白以前に関係者の供述により捜査官に判明していた事実ばかりを内容としており、捜査官による誘導によって述べさせることができたことである。

(エ) 自在鉤について

前記3(六)(6)に同じ。

(オ) 被害者の寝ていた順序について

被害者の寝ていた順序、寝ていた向きに関する原告一夫の自白は、他の供述部分と比較して異常に詳細であり、取調官の誘導によることが明らかである。

(カ) 木小屋の杉葉について

木小屋に入り、杉葉を踏んで足がツカアとしたという自白は、それまでに捜査官に判明していた証拠資料を与えられることにより、想像でも述べうる範囲内のことである。

(キ) 帰路の出来事について

返り血を洗うため、大沢堤でジャンパー、ズボンを洗濯し、再びこれを着て杉林の中で二時間くらい休憩していたという原告一夫の自白は、濡れたジャンパー、ズボンから水を絞るには非常な力を要し、濡れたズボンは履きにくいはずなのに、平板な供述内容に留まっており、また、寒い明け方に濡れたジャンパー、ズボンを着て二時間も休憩するということも非現実的であるから、むしろ右自白は経験者としてはありえないものである。

(ク) トラックの通過した事実について

前記3(六)(11)に同じ。

(ケ) 稲杭に関する供述について

夜間検証時に原告一夫が「あの晩稲杭にぶつかった記憶がない。多分あの晩はこの稲杭はこの位置に立てかけてなかったのではないかと思う。」と供述したのは、警察において杉葉のほうに何も触ったものがないように供述していたのでそう述べたのであって、それがたまたま客観的事実に一致したものということができる。

オ 同裁判所は、原告一夫の自白が他の証拠から認められる事実と合致するという。しかし、同裁判所がそのような供述として指摘する部分は、次のように捜査官が既に把握していた事実であって、誘導により供述させることができたものであり、秘密の暴露には当たらない。

(ア) 玄関に岩竈があったこと

捜査官は実況見分調書によりこの事実を把握していた。

(イ) 被害者の顔に何か布を掛けたこと

捜査官は、被害者の死体解剖に立ち会うことにより、被害者夫婦の顔に掛布団とは異なる布が掛けられていたことを把握していた。しかし、その布が何であるか証拠上明らかではなく、このような捜査官の認識に符合するように、原告一夫の供述も「被害者夫婦の顔に何か掛けた様な気もしますが、それが何だったのか、全く検討つきません。」と述べるに留まっており、捜査官の誘導を窺わせる。

(ウ) 犯行後薪割を置いた場所

捜査官は実況見分調書によりこの事実を把握していた。

(エ) 放火材料と放火場所

放火材料に関する原告一夫の供述は、当初杉葉だけであるとしていたのが、そのほかに木屑も用いたと変遷したが、これは、昭和三〇年一一月二九日付宮城県古川農林駐在室佐藤孝治による鑑定書の記載と一致させるために捜査官が誘導したために生じた変遷であると考えられる。

放火場所に関する原告一夫の供述は、当初六畳間であるとしていたのを、八畳間の誤りであったと変えているが、これは発火場所が八畳間であると考えられていたことからそれと一致させるために捜査官が誘導したために生じた変遷であると考えられる。

カ 同裁判所は、自白の変遷について「瓦工場の窯の中で時間を待った点を付け加え、薪割のあった場所を実地見分に立ち会った結果訂正したほかは、細かい点で附加した部分があるだけであ」り、自白の任意性を疑うべき事由は認められないとしている。しかし、自白の変遷は右に指摘したものばかりでないし、その変遷の内容を見ると任意の供述において生じ得ないほど大きい変遷である。

キ 同裁判所は、原告一夫はアリバイ供述を変転させ、それらが全て裏付け捜査で崩されたことから観念して自白したと認定し、これを自白の信用性の一根拠としつつ、否認に転じた後もアリバイの説明がつかないことから否認には根拠がないと判断した。しかし、一か月半も前の酔余の行動を記憶しているほうが不自然であり、また真犯人であればもっと上手なアリバイ供述を用意しておくはずであるから、右のような判断は、経験則に反する。

ク 原告一夫の供述には、そのほかにも前記3(六)(8)などのように真の経験者であればありえない不自然な部分が認められる。

ケ 同裁判所は、被告人(原告一夫)の自白は掛布団襟当の血痕によって科学的に殆ど決定的に裏付けられていると判断しているが、前記のように襟当血痕の付着状況等が不自然であって捜査官による偽造が疑われる点を究明していないばかりか、三木、古畑鑑定の信頼性に関して検討した形跡がなく、前記(一)(4)のような三木、古畑鑑定の欠陥を見落とした。

コ 同裁判所は、本件ジャンパー、ズボンには血痕付着が認められない旨の平塚着衣鑑定の結果について、それぞれ二度洗ったから血痕反応が出なくても不思議ではないと判断した。しかし、仮にそのように考えたならば、それが可能な推論であるかどうかを鑑定するのが裁判所の職責であり、これを行わなかったのは重大な過失である。

(三) 確定上告審裁判所

確定上告審裁判所は、原告一夫の上告に対し、「法律の定める上告理由に当たらない。」としつつ、自白には任意性及び真実性が首肯されるという判断を示し、これを棄却した。

右上告審に際し原告一夫の弁護人らは、上告趣意書等において、あたかも後に再審開始決定や再審判決の理由とされた判断と同一の証拠判断を主張していたのであり、最高裁判所が慎重審理を尽くしていれば、自白に任意性及び信用性のないことは容易に理解しえたはずであるから、最高裁判所の判断は重大な過失に基づく違法なものである。

6 損害

右3ないし5のような警察官、検察官及び裁判官の違法な職務執行により原告らが被った損害は次のとおりである。

(一) 原告一夫の損害

原告一夫は、二四歳で逮捕され、その後死刑判決が確定するまでの約五年間は重大犯罪の被疑者、被告人として、死刑判決確定後約二四年間は死刑囚として拘禁され、再審判決に伴う拘置の執行停止により釈放された時には五三歳になっていた。

その間、原告一夫は、取り返しのつかない貴重な年月を奪われて平凡な幸福すら得ることができなかっただけではなく、無実の主張を聞き入れられない無念さに怒り、絶望し、何時執行されるか分からない死刑に対する恐怖に絶えず晒されるという、極限的な精神的苦痛を長期間味わった。

原告一夫の前記身柄拘束期間中の得べかりし利益は五八四五万六八八円であり、原告一夫は既に刑事補償として七五一六万八〇〇〇円の支給を受けて、経済的損失を上回る補償を受けているということができるが、前記のような警察職員、検察官及び裁判官の行為の違法性及び故意、過失の重大性を斟酌すれば、原告一夫の精神的苦痛を慰謝するためには、さらに少なくとも一億円をもってするのが相当である。

(二) 原告春子の損害

原告一夫が逮捕、公訴提起を受けて後、その弟妹は学校で人殺しの家族と呼ばれいじめられ、離婚、退学を余儀なくされるなど、家族は辛酸を嘗め、また、原告一夫の無罪を勝ち取るために、経済的、精神的に多大な労苦を忍ばなければならなかった。特に原告春子は、死刑判決確定後は原告一夫がいつ死刑執行されるか分からないという不安の中で、昭和四四年三月から七七歳で息子の釈放の日を迎えるまでの間、約七二〇回にわたり仙台市青葉通りの森天祐堂前の街頭に一人で立って原告一夫の無実を訴え続け、全国行脚も行うなどしており、その精神的な苦痛は並大抵のものではなかった。

右のような原告春子の精神的苦痛を慰謝するためには、前記のような警察職員、検察官及び裁判官の行為の違法性及び故意、過失の重大性を斟酌すれば、少なくとも三〇〇〇万円をもってするのが相当である。

(三) 弁護士費用

原告らが本訴を提起、遂行するに要した弁護士費用として、各請求金額の一〇パーセントを被告らに負担させるのが相当である。

7 よって原告らは被告らに対し、国家賠償法一条に基づき、原告一夫は一億一〇〇〇万円、原告春子は三三〇〇万円及び右各金員に対す各違法行為の日以降の日である昭和五九年七月二六日から支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を連帯して支払うことを求める。

二 被告県の請求原因に対する認否及び反論<省略>

三 被告国の請求原因に対する認否及び反論<省略>

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(当事者の地位)及び2(再審無罪判決確定に至るまで)の事実は当事者間に争いがない。

二請求原因3(宮城県警察の行った捜査の違法性)について

1  傷害事件による逮捕勾留について

原告らは、原因3(一)のとおり、「警察職員が昭和三〇年一二月二日原告一夫に対して行った逮捕は違法な別件逮捕であり、また、右逮捕は逮捕状請求書に虚偽の事実を記載した点からも違法である。」と主張し、被告県はこれを争うので、以下検討する。

なお、請求原因4(一)(1)のとおり、原告らは、「検察官が右逮捕を容認したことは違法であり、また、検察官が同年一二月五日に行った勾留請求による勾留も違法な別件勾留である。」と主張し、被告国はこれを争うので、便宜上ここで併せて検討する。

(一)  いわゆる別件逮捕勾留について

いわゆる別件逮捕勾留として違法性の有無が問題とされるのは、一般に、捜査官が、逮捕状請求ないし勾留請求するに足りる証拠の揃わない重大な犯罪事実(本件)について被疑者の身柄を拘束して取り調べる目的で、他の比較的軽微な犯罪事実(別件)を被疑事実として被疑者を逮捕勾留し、その逮捕勾留期間を利用して本件で逮捕勾留して調べたのと同様な効果を得ようとする場合である。

しかし、このように、捜査官において別件による逮捕勾留期間を利用して本件を取り調べる意図があり、かつそれが逮捕勾留の主要な目的であったとしても、別件について逮捕勾留の理由及び必要性が認められる限り、別件による逮捕勾留がただちに違法となるものとはいえない。けだし、捜査官が本件について捜査を併せて行う意図を有するからといって、別件についての捜査を行う必要がなくなるものではないからである。

けれども、別件について表面的には逮捕勾留の理由及び必要性を満たす場合であっても、捜査官の別件による逮捕勾留の動機がもっぱら本件について取り調べることにあったと認められる場合には、実質的には別件についての逮捕勾留の必要性がなかったというべきであるから、右逮捕勾留による身柄拘束は、刑事訴訟法に令状に関する事件単位の原則を潜脱するものであり、違法なものというべきである。

そこで、どのような場合にもっぱら本件について取り調べる目的であったというべきであるかが問題となるが、まず別件が逮捕勾留して捜査するに価する実質を有する事件であるか否かということに着目すべきであり、更に別件捜査の経過と逮捕勾留の時期との関係、逮捕勾留期間中における別件の取調べと本件の取調べの経過及びそれぞれの比重などを総合的に検討して、客観的に見て捜査官は本件について取り調べる意図目的がなければ逮捕勾留をしなかったであろうと認められる場合には、右逮捕勾留はもっぱら本件についての取調べを目的としたものということができると解する。

(二)  逮捕勾留に関する事実関係

(本判決掲記の書証は全て成立に争いがない。なお、甲号証については、丁数は再審事件記録として付された丁数をいい、原則として、その丁数から始まる一個の文書を指示するものとする。)

<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(1) 松山事件発生後ただちに古川署では、古川署長を本部長とし、県警本部捜査一課の応援を得て、総勢六五名からなる同事件の捜査本部を松山巡査部長派出所に設置し、捜査を開始した。

同捜査本部では、犯行の動機として、殺害方法が残虐過ぎること、被害者嘉子に異性関係の風評があったこと等から、痴情、怨恨の線が考えられるとする一方で、被害者方が居宅の増築工事に着手していた関係から小金を貯めていたとの風評もあり、盗みに入った者がなりゆきから殺人放火を犯したという物盗りの線も捨て難いとして、痴情怨恨と物盗りの両面から捜査することとし、現場周辺はもちろん周辺市町村にまで徹底した聞込捜査を実施するなどして、容疑者を次第に絞っていった。

そうした中で、当時古川署捜査兼鑑識係の佐藤三郎巡査部長は、昭和三〇年一〇月二八日ころ、鹿児島台町の小野又は小野寺なる人物から、「原告一夫が高橋一に対し傷害を負わせたことがある」旨及び「この地域で人を殺すような者は原告一夫しかいない」旨を聞き込み、これを捜査本部に報告した。原告一夫はそれ以前から松山事件の捜査の対象となっていたが、その後の捜査の結果と併せ、次のような情況証拠があることから、物盗りの線の最有力容疑者と目されるに至った。

① 三、四年前より不良仲間に出入りし、素行不良者で毎晩のように町内を徘徊し、ヒロポン常習者の噂もあること。

② 鹿島台劇場で観覧中、一時上映が中断した際に「火を付けるぞ」と野次った事実があること。

③ 酒好きで町内の飲食店等に約一万円の借財があり、金銭に窮していたこと。

④ 土地勘があり、被害者と面識があること。

⑤ 本件発生二日前の一〇月一六日午前中、被害者嘉子が原告一夫方に建築資材を購入に来たのを目撃しているらしいこと。

⑥ 本件発生当夜の一〇月一七日夜、仲間と小牛田に行き衣類を入質して飲食し、その後一人で午後一〇時ころ鹿島台駅で下車したが、翌一八日午前六時ころまでのアリバイがないこと。

⑦ 盗癖があり、数回にわたって自宅より米を盗み出して遊興していること。

⑧ 本件発生後一〇日目の一〇月二七日、仲間とともに東京方面へ家出して所在不明になっていること。

⑨ 本件発生後家出するまでの間、再三にわたって母春子より「お前が小原さん達をやったのではないだろうな、もしそうだとしたら早く話して謝れ。」と促された事実があること。

一方、高橋一に対する傷害事件は、その後の捜査で逮捕状を請求できるだけの証拠が揃った。

捜査本部では、一一月二五日午後の捜査会議及びその後の幹部打合せ会において、痴情関係で最有力容疑者と目されていた某と原告一夫の両名の容疑について検討したところ、右某については、本件火災発生時現場に駆け付け、松山巡査部長派出所に火災発生を届け出るに至った状況や、その際の同人の言動において何ら不審な点は見当たらなかったことから、更に慎重な身辺調査を継続することとし、一方、原告一夫については、別件の傷害事件で逮捕する方針を固め、翌二六日、古川簡易裁判所裁判官に対して原告一夫に対する逮捕状を請求し、同日逮捕状の発付を受けた。

(2) 右逮捕状請求書(<証拠>)中には、

① 被疑者欄に「氏名甲野一夫、年齢二十四年位、職業不詳、住居不定」

② 「七日を超える有効期間を必要とするときはその期間及び事由」の欄に「家出逃走中で居所不明につき一箇月間」

③ 「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」の欄に

一  高橋一の被害届及び供述調書

二  歯科医師菊地茂之がなした診断書

三  司法警察員巡査部長佐藤三郎の認知報告書

④ 「被疑者の逮捕を必要とする事由」の欄に「被疑者が逃走中であるため」

⑤ 「被疑事実の要旨」の欄に「被疑者甲野一夫は昭和三十年八月中の午後七時二十分頃志田郡鹿島台町平渡字上敷三十七番地甲野虎治方において志田郡松山町長尾字氷室一一三仙台鉄道管理局鹿島台予備駅手高橋一(二十六年)が被疑者家人に先に被疑者より暴行を受けた事実を告げんとしたところを憤慨し同人が勝手庭先に腰掛けている右横合から突然右手で同人の後首を掴んで庭に引きずり転がし左右の手拳で内伏せになっている同人の頭部・顔面・背中等を二十回乃至三十回程殴打し因って同人の左下顎臼歯部に全治十日間を要する外傷性・単張性歯根膜炎の傷害を与えたものである」

という各記載がある。

(3) 捜査本部では、同年一一月三〇日ころ、捜査員(県警本部捜査一課課長補佐佐藤四郎警部、古川署佐藤三郎巡査部長、同署鈴木五郎巡査)を上京させ、同年一二月二日午前八時ころ、東京都板橋区内の丸金牛豚専門店こと金沢明浩方で住込稼働中の原告一夫を板橋警察署に任意同行させた。同署において佐藤警部は、原告一夫から東京へ出て来た経緯、東京での生活に関し事情聴取をしたほか、一〇月一七日の晩の行動についても質したところ、「母のところに泊まった。翌朝早く自転車で帰宅した。」旨供述した。同日午後六時四〇分、捜査員は同署において原告一夫を通常逮捕した。その晩、佐藤巡査部長、鈴木巡査により夜行列車で押送された原告一夫は、翌三日午前一〇時、古川警察署に引致され、右傷害被疑事件は身柄付で同月四日午後五時五〇分仙台地方検察庁古川支部検察官に送致する手続がとられ、同支部検察官大津十郎は、同月五日、右事件について古川簡易裁判所裁判官に勾留請求をし、同日勾留状の発行を受けた。

なお、佐藤警部は、原告一夫の押送に同行せず、同月三日、東京での原告一夫の生活について阿住領及び早坂信の供述を録取し(<証拠>)、同月五日午前に捜査本部に戻った。

(4) 傷害事件による逮捕勾留中の原告一夫に対する取調べ状況については、次のとおりである。

① 昭和三〇年一二月三日

午前一〇時ないし一一時ころから、当時古川署刑事副係長であった千葉六男警部補は、松山巡査部長派出所において、板橋署から押送されてきた原告一夫から右傷害被疑事件について弁解を録取したが、原告一夫は右被疑事実を認めていた。昼食休憩時には原告一夫を同派出所の留置場に留置した。同警部補は同日昼食後からさらに午後六時ころまで右傷害被疑事件について取調べを行い、供述調書を作成した。右取調べ終了後、古川署に原告一夫を押送し、同署の留置場に留置した。

同留置場において原告一夫は高橋二郎と同房することとなり、二人は午後八時ころ就床した。

② 同月四日

千葉警部補は、午前九時ないし九時半ころから、古川署幹部当直室において余罪である銃砲刀剣類等所持取締令違反被疑事件について、原告一夫を取り調べた。右被疑事実は、三八式歩兵銃の銃剣であるいわゆる「ごぼう剣」及び短刀を所持していたという内容であったが、原告一夫はこの事実を認めていた。右取調べは午前中に終了した。同警部補は、同日午後から同所において、亀井警部の指示により、原告一夫から一〇月一五日ころから同月一九日ころまで(つまり松山事件発生の前後)の行動について事情聴取し、参考人調書を作成した。が、当日は一〇月一五日から一七日昼までの行動についての調書を作成するにとどまった。なお、その間、前述のように午後五時五〇分付で、検察官に対する送致の手続が取られている。取調べは午後九時ころ終了し、そのころ原告一夫は留置場に戻された。

③ 同月五日

午前九時三〇分ころ、原告一夫は留置場から出されて顔写真(<証拠>)を撮影され、一〇時二三分ころ、仙台地方検察庁古川支部において大津十郎検事により傷害被疑事件についての弁解を録取され(<証拠>)、その後古川簡易裁判所裁判官佐藤七郎の勾留質問を受けた。原告一夫は一二時一五分一旦留置場に戻され、一二時五〇分に勾留状の執行を受けた。証拠上時刻は明確ではないが、おそらく昼食の前か後、千葉警部補は、前日からの続きである一〇月一七日昼ころから同月一九日ころまでの行動について原告一夫の参考人調書(<証拠>)を作成した。右調書には、一七日晩に鹿島台駅を降りてからの行動について「酒飲んだかどうか記憶にない。その晩家に帰ったような記憶も全然解らない。翌朝、どこかの家で目覚めて、自転車で帰宅した。」という記載がある。

その後、千葉警部補から引継ぎを受けた古川署刑事係長亀井八郎警部が主任、佐藤四郎警部が立会となり、原告一夫に対する松山事件についての本格的な取調べを開始し、一〇月一七日晩に鹿島台駅に着いてからの行動を追及した。

なお、同日付で発行された勾留状(<証拠>)には、「被疑事実の要旨」欄に「逮捕状記載のとおり」、「法第六〇条第一項に定める事由」欄に「罪証隠滅ならびに逃亡の虞れある。」との各記載がある。

④ 同月六日

亀井、佐藤両警部らは前日同様一〇月一七日晩のアリバイを追及したが、原告一夫のアリバイ主張は変転した。

原告一夫は、佐藤警部に対し、一〇月一七日晩の行動について「鹿島台駅に着いてからのことについては、そのまま真直ぐに帰って母のいる店のほうに寄って泊まってその次の朝家に帰ったと申し上げてありますが、それは誤りで、よく考えてみると駅に降りてから裏町の金山という朝鮮人の飲み屋に立ち寄って焼酎を飲んだように思います。(中略)そこで相当酔っ払ったらしくそこの店に入ったまでは分かっているが、その後のことは全然記憶に残っておりません。ところが翌朝になって柴さんの家に泊まっていることが分かったのです。」と述べたが(<証拠>)、捜査の結果、原告一夫は、その晩、右飲み屋にも、柴(和喜雄)方にも立ち寄った事実のないことが判明した。

夕食後、原告一夫は「明日本当のことを言うから、少し考えさせてくれ。」と言い出した。そこで捜査員が「それなら今夜話してもよいではないか。」という趣旨の説得を行ったところ、原告一夫は午後八時過ぎころ、松山事件について自白したので、捜査員は供述調書(<証拠>)を作成した。

⑤ 同月七日

亀井警部らは、さらに松山事件について原告一夫を午後一一時ころまで取り調べ、詳しい自白調書(<証拠>)を作成した。

⑥ 同月八日

捜査員は、古川簡易裁判所裁判官佐藤七郎に対し強盗殺人、非現住建造物放火被疑事件(松山事件)につき逮捕状を請求し、その発行を受けた。

午前中、仙台地方検察庁古川支部の服部九郎検事は、原告一夫を傷害被疑事件及び銃砲刀剣類等所持取締令違反被疑事件について取り調べ、供述調書(それぞれ第一回)を作成した。

捜査員は、同日午後二時二〇分、傷害被疑事件につき原告一夫の身柄を釈放し、松山事件につき同原告を通常逮捕した。千葉警部補は同事件に関して同原告の弁解を録取したが、同人は被疑事実を認めた。

亀井警部は更に原告一夫から松山事件についての自白を録取した(<証拠>)。

ところで、いわゆる否認の手記(<証拠>)には、「松山でも(一〇月)一七日の晩のことを調べられましたがどうしても分かりませんでした。」という記載部分があり、その前後関係からすると、これは一二月三日の取調べについて述べたものとも考えられ、その日にも一〇月一七日晩の行動について取調べを受けたという趣旨のようである。しかし、<証拠>によれば、一二月三日に松山事件について取り調べた事実はないというのであり、また、高橋二郎の昭和三〇年一二月五日付員面調書(<証拠>)によれば、一二月四日午後五時に留置場に戻ってきた原告一夫が「今松山事件で調べられてきた。」と高橋に述べていたことが認められるのであるから、原告一夫に対する取調べは、一二月四日午後の亀井、佐藤警部による取調べより前においては、松山事件についての積極的な取調べは行われておらず、傷害被疑事件及び銃砲刀剣類等所持取締令違反被疑事件についての取調べに付随して一〇月一七日晩の行動について事情聴取をしたという程度にとどまるものと推測される(もっとも、その目的が松山事件についてのアリバイ追及であることは、原告一夫も十分承知していたと思われる。)。

(三) 検討

右(二)の事実関係をもとに、右(一)に述べたところにしたがって、原告一夫に対する傷害事件による逮捕勾留が違法な別件逮捕勾留であるか、次に検討する。

(1) 前記認定のとおり、捜査本部は、松山事件の捜査の結果、原告一夫を同事件の最有力容疑者の一人と認めたため、松山事件について取り調べる目的で原告一夫を別件である傷害被疑事件で逮捕したこと、右傷害被疑事件については、逮捕の翌日に取り調べて調書を作成しただけであり、余罪である銃砲刀剣類等所持取締令違反被疑事件についても、一二月四日午前中に取調べを行っているが、右いずれの被疑事件についても原告一夫は自白していたこと、一二月四日午後以降は、もっぱら松山事件についての取調べが行われていることが認められ、これらの事実によれば、右傷害被疑事件による逮捕の主要な目的は、松山事件について取り調べることにあったと認められる。

しかし、右傷害被疑事件は、逮捕状記載の被疑事件から見る限り(他にその内容を窺い知ることのできる明確な証拠はない。)、その動機においては、以前にも被害者高橋一に対し暴行を加えた事実があり、高橋一がそのことを原告一夫の家族に告げようとしたことに憤慨して行ったものであること、犯行態様は、頭部、顔面、背中等を二〇ないし三〇回手拳で殴打したという執拗なものであること、その結果、高橋一の顎に全治一〇日の傷害を与えたというものであることから、刑事事件として必ずしも軽微なものではなく、原告らは右事件については示談が成立していた旨主張するが、当初右事件の捜査を担当した佐藤三郎、右事件について原告一夫を取り調べた千葉六男及び右事件で原告一夫を勾留請求した大津十郎は、示談は成立していなかったと思う旨証言し、他の証拠によっても示談が成立していたなど被害者高橋一が宥恕していた事実は特に窺われず、右事件は捜査訴追するに価するものであったと考えられること、検察官が右事件について不起訴としたのは、死刑判決を予期しうる松山事件で原告一夫を起訴したことから、傷害事件により処罰を求める必要性は乏しいと判断したものと推測することができ、当初から右事件による処分を予定していなかったとはいえないこと、原告一夫は、昭和三〇年一一月一四日ころから東京都板橋区の肉屋の住込店員として稼働していたが、住居は不安定であり、また事案の性格等からすれば、被害者に対し圧力を加えるなど証拠を隠滅するおそれがあったと認められることからすれば、右事件を理由として原告一夫を逮捕しさらに勾留したことは、その理由及び必要性の要件を実質的にも満たしていたものということができ、これが身柄を拘束して捜査することが特に不自然な事案であったということはできない。

また、この逮捕の時期は、右傷害事件の発生から約四か月、それが捜査員に判明してから一か月余の後であり、右事件の捜査の経過及び原告一夫が一〇月二七日には家出してしまっていたことからみて、特に古い事件を逮捕の口実に利用したというような、不自然な時期に逮捕したものであるともいえない。

さらに、右傷害被疑事件により勾留した翌日(一二月六日)には、原告一夫は松山事件を自白しており、捜査員は勾留四日目の一二月八日には右傷害被疑事件について身柄を釈放し、松山事件を被疑事件として逮捕していること、傷害被疑事件による逮捕勾留中における松山事件についての取調べは、自白以前が約二日半(うち約一日は、松山事件発生前後の行動に関する事情聴取にとどまり、その結果アリバイ供述が不自然であったために開始されたと推測される本格的取調べは約一日半である。)、自白以後が約一日半であり、合計約四日にとどまること、傷害被疑事件及び銃砲刀剣類等所持取締令違反被疑事件に関する第一回の検察官の取調べは、松山事件で原告一夫を逮捕した一二月八日に行われており、通常の場合と比較してそれが特に遅い時期になされたとはいえないことなどの事実からすれば、松山事件についての取調べは、傷害被疑事件についての取調べと並行して行われたものという程度にとどまるというべきである。

なお、右傷害事件は、被害者の生命に対する危険のほとんどないようなものであるにもかかわらず、捜査本部が東京まで捜査員を派遣して原告一夫を逮捕したのは、前述のように松山事件について同原告を取り調べる目的があったためであることはいうまでもなく、したがって、傷害事件を捜査する目的だけであれば、東京まで捜査員を派遣しなかったであろうということはできるけれども、もとの住所にいたら逮捕されてもやむをえない事件であるなら、東京まで捜査員を派遣した事実を特に重視すべきではないというべきである。

以上を総合すれば、傷害被疑事件による逮捕勾留は、主として松山事件について取り調べる目的で行われたことは明らかであるけれども、もっぱら松山事件について取り調べる目的でこれをなしたものと断じることはできず、したがってこれが違法な別件逮捕勾留であったということはできない。

(2) ところで、別件による逮捕勾留中、本件で取り調べることが許されるかどうかについては、右に述べた逮捕勾留自体が適法か否かの問題に関連するけれども、これとは別の問題である。

思うに、刑事訴訟法の令状に関する事件単位の原則からすると、逮捕勾留の理由とされた事実とは関連性のないいわゆる余罪については、被疑者に取調べを受忍すべき義務はないというべきである。しかし、余罪について取り調べることも、捜査員がその取調べを拒否する被疑者に対し敢えて取調べを強行したなどの事情がない限り、社会通念上、逮捕勾留中の被疑者の保護すべき権利利益を侵害したとまではいえないというべきであるから、これを国家賠償法上違法ということはできないものと解する。このことは、別件逮捕勾留中に本件の取調べを行う場合についても異に解すべき理由はないと考える。

本事件において、別件の傷害被疑事件による逮捕勾留中に松山事件で原告一夫を取り調べたということについても、右のような事情は認められないのであるから、これを違法ということはできない。

(3) 以上のとおりであるから、原告一夫を傷害被疑事件で逮捕勾留し、その逮捕勾留中に松山事件について取り調べたことが違法であると認めることはできない。

(四) 逮捕状請求書の記載について

なお、別件である傷害事件についての逮捕状請求書中、被疑者欄に「年令二四年位、職業不詳、住居不定」と記載され、逮捕の必要性について「被疑者が逃亡中であるため」と記載されていたという事実は、右のとおり認められる。しかし<証拠>によれば、家出した原告一夫が東京都板橋区の肉屋に落ち着いたことを知らせる家族宛ての手紙が届いたのは一一月二五日ころと認められること<証拠>によれば、原告一夫とともに上京した金澤定俊、清俊治らは一一月九日ころ鹿島台町に戻っていたようであるけれども、彼らは、原告一夫が一〇月三一日ころ行き先を告げずに当時三人が寄宿していた東京都品川区の神山豊吉方からいなくなったため、その後の同原告の居所を知らなかったと認められること、証人佐藤四郎は、捜査員は原告一夫の居所が判明すると直ちに逮捕のために上京したと思う旨供述していることから、右逮捕状の請求がなされた一一月二六日には、捜査本部は同原告の居所ないし職業を把握していなかった可能性が高く、また、東京というほか行先を告げないで家出したという態度からすると、これを目して「逃亡中」ということは言葉として適切を欠くきらいはあるものの、虚偽であるとまでいうことはできず、少なくともこれらの記載が、当時捜査員の認識し又は相当な注意を払って認識しえたところと異なるものであったと認めることはできないから、右記載のある逮捕状請求書により逮捕状の発行を得てこれを執行したことが違法であるということはできない。

2 高橋二郎を同房させたこと等について

原告らは、請求原因3(二)のとおり、「捜査員は、高橋二郎をして、留置場において原告一夫と同房させ、同原告の房内における言動を監視、報告させ、更に原告一夫に対し自白を示唆させた。」と主張し、それが原告一夫をして虚偽の自白をさせることになり、さらには誤判の原因となった違法な行為であると主張する。これに対し被告県は、「右のような行為は、直ちに違法であるとは言えず、そもそも捜査員が高橋に原告一夫の監視を命じたり、自白を示唆させたりした事実はなく、また、高橋が仮に原告一夫に自白を示唆したとしても、そのことと原告一夫が自白をしたこととの間に因果関係がない。」と主張する。

(一) 思うに、警察職員が、被疑者Aを被疑者Bと留置場において同房させ、BをしてAの房内における言動を報告させることは、Bの身柄拘束をその目的以外のために利用することになること、AがBに対し虚勢を張って真犯人であるかのように振る舞う場合も考えられ、Bの報告内容によっては捜査員等が誤った心証を形成する危険があることなどから適当な措置とは言い難い。しかし、右のような措置自体がAの逮捕勾留中の被疑者としての具体的な権利利益を侵害するものとはいえないし、また右のような措置は、特別の事情のない限り、Bの影響のもとにAをして任意性のない自白または虚偽の自白をさせ、ひいては誤判を招くこととなる具体的な危険を有するものとはみとめられないのであり、警察職員は右のような措置を行うことが一般的に禁じられているということはできない。

本件における高橋二郎は、後述のように、当時前科四犯の、被疑事実の一部を否認していた被疑者であったと認められ、捜査員と顔なじみであった可能性も否定できず、また原告一夫が重大事件の被疑者であることからその捜査の成り行きに関心を抱いていたらしいことも認められるが、これらの事情によっても、高橋が原告一夫に有利または不利な働きかけを行う動機は特に考えにくかったというべきであるから、捜査員が右のような措置を避けるべき特別な事情があったということはできないのであり、捜査員が高橋を原告一夫と同房させ、房内における同原告の言動を報告させたことが違法であったということはできない。

(二) すると、原告らの主張のうち特に検討すべきは、「原告一夫が昭和三〇年一二月六日に自白し、同月一五日までこれを維持したのは、高橋二郎から、『警察ではやらないことでもやったことにして、公判のときに本当のことを言えばいい。』旨教えられたからであり、高橋がこのようなことをしたのは、警察職員が高橋に原告一夫を自白させるように依頼または命令したか、仮に明示的に頼まなかったとしても、言わず語らずのうちに高橋に原告一夫に対して自白を働きかけるように仕向けたからである。」ということであると解される。

思うに、同房の被疑者Bが「警察ではやらないこともやったことにして、公判のとき本当のことを言えばいい(有罪判決を免れることができる)。」というようなことを教えたために、被疑者Aが、捜査段階において自白することの意味、効果について錯誤に陥って自白し、そのために有罪判決を受けた場合、その自白が虚偽であるか否かにかかわらず、Aは偽計により自白させられたものというべきであり、右Bの行為に警察職員が加功していた場合には、その警察職員の行為は、国家賠償法上も違法というべきである。

しかし、BがAに自白を勧めたことがあったとしても、それが「真実を述べて罪を償うべきだ。」という趣旨の言葉であったなら、Aが自白したとしても、その自白の任意性に影響を及ぼしたとはいえないから、これに警察職員が加功していたとしても、それが一面で、同じ境遇にあることによるAのBに対する気安さ、親しみを利用するという点で公正さを欠く印象のあることは否定できないものの、未だ違法とはいえないものと解する。

(三) そこで、本件においては、高橋が原告一夫に対し、捜査段階で自白することの意味、効果について錯誤に陥るようなことを言った事実、それにより原告一夫が錯誤に陥り自白した事実及び右高橋の自白示唆に捜査員が関与した事実がいずれも認められるかどうかが問題となる。

(1) 原告一夫は、松山事件について自白から否認に転じたいわゆる否認の手記を作成して以来、翌日の一二月一六日付員面調書を除き、今日までほぼ一貫して、「厳しい取調べに疲れ果てて寒い留置場に戻ると、高橋二郎から『未決に行けば何でも食べられるし、外に散歩に出られる、暖かい布団もある、窓が留置場よりも大きく、陽が差して暖かい。』、『警察ではやらないこともやったことにして、早く未決に行き、裁判のとき本当のことを言えばいい。』、『いつまでも否認していると拷問にかけられる。俺も拷問にかけられたことがある。』などと言われ、その言葉を信じて自白した。」と主張していることが認められる(<証拠>)。

(2) これに対し、高橋は、

① 昭和三〇年一二月一六日、服部検事に対し、「一二月五日ころ、甲野(原告一夫)に対し、『悪いことをしているなら、早く白状した方がいい。』と忠告してやったことがある。」と述べ(<証拠>)、

② 昭和三一年一二月二五日、確定第一審第一四回公判における証人として、「被告人(原告一夫)が『悪運が尽きたから白状するかな。』と言ったとき、私は被告人に、『やったことはやったとして裁判官、検事、弁護士に正直に述べて早く未決に行った方がよい。』というようなことは話してやったことがあるが、『自分でやらないことでもやったことにして、裁判所の公判に行ってから本当のことを言えばよいのだ。』というようなことは言っていない。被告人は私の言葉を誤解したのではないか。」と証言し(<証拠>)、

③ また、昭和三八年七月六日、第一次再審請求第一審における同人の証人尋問期日において、「やったことはやった、やらないことはやらないと正直に言ったら良いとは話したが、やらないことをやったと言えということは絶対言っていない。」(<証拠>)と証言していること

が認められる。

しかし、高橋はまた、

④ 一二月六日、千葉警部補に対し、「私は前科五犯で随分悪い事をしたが、刑は大した事はなかったからお前も正直に話した方がいいと云い聞かせると、『それでは俺も白状するかな。』と今調べられている事件を白状する旨初めて聞かされました。そして私に、刑務所に入ったらどんな事をさせられるとか、刑務所の生活を色々聞くので私の体験を聞かせましたところ、『それでは俺が刑務所に行ったら自動車運転でもして免許証でも貰ってくるかな。』等と云うておりました。そこで先日来夜毎に聞かされる唸り声の原因を知りたいと思い、人殺しでもするとその怨霊に魘されて唸るとよく云うが、お前は何か人でも殺して来たのではないか、もしそうだとすると正直に白状して心からお詫びするとそのように魘されないそうだと云うと頭を傾けて頷くようにして、『そうかな―それでは俺も白状するかな。』と話しておりました。」と供述し(<証拠>)、

⑤ 一二月一六日には服部検事に対し、「それから甲野にどの位の刑をくうだろうかというような事も聞かれました。私は内容もよく判らないので、四、五年位だろうといい加減な答えをしたら、甲野は刑務所での生活の模様等を種々尋ね、私が刑務所生活の模様を話して聞かせたら、『それでは俺は刑務所に行って自動車の運転を習って免許でも貰ってくるかな。』と言っておりました。」と述べ(<証拠>)、

⑥ 一二月一九日には服部検事に対し、「一二月六日の晩白状して来たと云って帰って来てから七日の朝になって甲野は、実は俺はやっていないんだが、一七日の晩小牛田で汽車に乗った迄は覚えているが、それから一九日朝迄の事はさっぱり判らないんだ。ヒロポンを射って物忘れする、小牛田の駅迄来た事は覚えているが、それから後が判らないが俺はやっていないんだ、と申しておりました。私はやっていないんだったらやっていないと、今後検察庁や裁判所の調べもあるのだから、その時本当の事を云ったらいいと申してやりました。」と供述している(<証拠>)。

ところで高橋は、前記各供述の当時、「原告一夫が毎夜のように魘されていた」とも述べていたが、事件後逮捕されるまでの同原告と同室に寝たことのある者は、いずれも同原告が魘されるのを聞いていないというのであり(<証拠>)、かつ前記各供述当時、高橋は前科四犯ないし五犯の、勾留された被疑者、被告人、または既決の囚人であったことからすると、前記各供述が捜査員に迎合したものである可能性を否定し去ることはできない。しかし、原告一夫が初めての逮捕勾留と厳しい取調べに精神的に疲労していたとすれば、夜魘されていたということもありえないことではないこと、高橋は原告一夫と同房していた当時の窃盗、横領の事実により昭和三一年一月一八日に懲役一年六月の実刑判決を受けていること、前記各供述は極めて具体的で一貫しているうえ、必ずしも原告一夫に不利な事実ばかりではなく、有利な事実も含むものであることなどからすると、その信用性は低くないものというべきである。

(3) 以上(1)(2)を総合すると、高橋が「やらないこともやったことにして、裁判のとき本当のことを言えばいい」と、虚偽の自白であっても自白したほうがよいというような趣旨のことを言った事実は認めることはできないけれども、高橋が、松山事件の刑期は大したことはないだろうと言ったり、警察の留置場よりも拘置所や刑務所の待遇が良いことを教えたりして、原告一夫に自白した場合の結果について誤った認識を植え付けようとし、自白するように勧めていたことは確かであり、原告一夫は、刑事裁判を受けることはもちろん、逮捕されたことも初めてであったうえ、弁論の全趣旨によれば、同原告は性格的にかなり軽率な面のあったことは否定できないのであるから、刑務所暮しにも慣れているらしい高橋の話を信用したということも、まったくありえないことではないと言わなければならない。

(4) しかし、原告一夫は当時二四歳で、農学校を中退した後、家業の製材業を手伝ったり、東京や釜石市で働いた経験もあり、毎日、新聞にも目を通す習慣もあった(<証拠>)というのであるから、ある程度の社会常識はあったと思われるし、小学校時代の成績は比較的良好である(<証拠>)ところから見て、知能程度も低くなかったと思われる。すると、当時近隣で重大事件として騒がれていた松山事件が、死刑はともかく相当な重罰に価する事件であることは理解できたはずであり、そのような事件について、初めて留置場で出会った前科がいくつかあるという素性の知れない男から、刑期は四、五年くらいだろうなどと言われて自白を勧められたからといって、それを安易に信用して自白したとは考えにくいといわざるをえない。

しかも、後述6(一)(3)のように、自白に至った経過を見ると、アリバイ主張を変転させ、これらが裏付捜査の結果すべて崩された末に自白しており、あたかも言い逃れに窮し、観念して自白したかのようであること、その自白を九日間維持しており、その間、検察官や勾留裁判官の面前でも自白しているほか、警察による実況見分や検察官による検証にも立ち会い、犯行及びその前後の行動を動作で再現して見せたり、指示説明したりしていること、特に、一二月九日(検面調書では八日であるが、九日が正しいであろう。)には高橋が原告一夫の言動を捜査員に報告していることに気付いたこと、同月一〇日には高橋が古川拘置支所に移管されたことも認められるのに(<証拠>)、その後も同月一五日まで自白を維持していることなど、高橋からの右のような示唆により自白したような態度とは認めにくいのである。

(5) また、高橋は、捜査員に対して原告一夫の言動を非常に詳細に報告していること、高橋が当時の自己の被疑事実(横領等)を一部否認していたこと(<証拠>)からすると、右のような原告一夫に対する自白の示唆も、高橋が自己の被疑事件について有利な取扱いを期待して、捜査員に迎合して行ったものではないかという疑いをまったく否定できるとまではいえないが、前述のとおり高橋は捜査員に原告一夫に対して自白の示唆を行ったことを具体的に供述し、捜査員はこれを供述調書に書き残していること、高橋は検察官に対し原告一夫の言動を報告したことについて捜査員から何ら依頼を受けたことはなく、そのようにしたのは原告一夫が夜魘されるのを聞いたことがきっかけであると述べていること(<証拠>)、むしろ、高橋の供述する原告一夫との会話の状況から見るならば、高橋が原告一夫に自白を勧めたのは、その場の話のなりゆきから無責任にそうしたようであることから、捜査員が高橋に対し、原告一夫に対して自白の示唆を行うように指示ないし依頼したり、または言わず語らずのうちにそうするように仕向けたものとは認められず、他にこのような事実を認めるに足りる証拠はない。

(四)  以上のとおり、高橋が原告一夫に対し自白の示唆を行った事実は認められるものの、原告一夫の自白が自白した場合の結果について錯誤に陥ったためになされたものとは認め難く、さらに、そもそも捜査員が右自白の示唆に関与した事実も認められないのであるから、原告らの主張を採用することはできない。

3 取調べの方法、態様について

原告らは、請求原因3(三)のとおり、捜査員が次のような違法な取調べを行い、これが原告一夫に虚偽の自白をさせる一原因となり、さらには誤判の原因となったと主張し、被告県はこれを争うので以下検討する。

(一) 深夜に及ぶ長時間連続取調べについて

(1) 被疑者を逮捕勾留して取り調べる場合には、被疑者に必然的にある程度の肉体的精神的苦痛を与えるものであるから、これが取調べのために通常避けることのできない程度のものであれば、法も予定し許容しているものということができる。したがって、取調べの時間、時刻についても、具体的な取調べの必要性と被疑者の体調との兼ね合いで、それが取調べのために社会通念上許容される限度を超え、ないしは供述の任意性を保ちえない程度に至った場合に限り、国家賠償法上も違法となるものと解する。

(2) 原告一夫は、確定第一審被告人質問から今日まで一貫して、「夜一二時ころ(又は一二時近く)まで長時間、取調べを受けた。」と述べ、高橋二郎も、第一次再審請求第一審における昭和三八年七月六日期日に「原告一夫は、自白する前、夜遅くまで取調べを受け、眠くてしょうがないと述べていた。」旨証言しており(<証拠>)、原告一夫の右供述を一部裏付けるかのようである。

しかし、関係捜査員は、一二月七日の晩に午後一一時ころまで取り調べたのを除き、取調べは午後一〇時前には終了していたし、昼食、夕食時には一時間の休憩を入れていたと供述しており(<証拠>)、原告一夫も確定第一審の被告人質問において、昼食、夕食時に休憩時間のあったことを供述しており(<証拠>)、高橋二郎の員面調書(<証拠>)によれば、朝はたいてい七時ころ起こされており、朝食後も九時ないし九時半ころまでは留置場にいた模様であり、その間まどろむこともできたこと、昼食時には留置場に戻されていたこと、午後五時ころにもいったん房に戻され高橋二郎とかなり長い会話を交わすことができたこと(夕食のための休憩と思われる。)が窺われるのであり、また前記1(二)(4)に認定したとおり、一二月三日は原告一夫も午後八時ころ就床したこと、四日は午後九時過ぎころ取調べから戻り寝たことが認められるのであるから、自白に影響した可能性のある同月六日以前の取調べが深夜まで及んだとか長時間連続で行われたという事実を認めることはできない。ただ、五日の晩については、何時まで取調べが行われたかについて客観性のある証拠がないけれども、仮に五日に限って原告一夫の述べるように午後一二時ころまで取調べが行われたとしても、そのために原告一夫の睡眠時間が不足したとまでは認められない。

なお、自白した一二月六日以降の取調べについては、弁論の全趣旨によれば、長時間連続ないし深夜に及ぶ取調べがあったとは認められない。

(3) 以上のとおりであるから、原告一夫に対する取調べが、時間、時刻の面で社会通念上被疑者に対する取調べとして許容される限度を超えたものであったということはできず、また供述の任意性を確保しえない程度に至ったものということはできず、これが違法であるということはできない。

(二) 複数捜査員による自白の強制について

(1) 複数捜査員(特に三人掛り)による取調べは、そのような態様による取調べがただちに違法となるものと解すべき理由はなく、取調べが暴行脅迫を伴う等、被疑者に対し社会通念上許容されえない精神的肉体的圧迫を与え、供述の任意性を保ちえない程度に至った場合に違法となるものというべきである。

(2) 原告一夫の供述するところによば、亀井警部、佐藤警部、千葉警部補ら三人が同時に取調室にいて、こもごも「やったと言え。」、「やったと言わなければいつまでも出られない。」などと言いながら、額を小突き、肩を押すなどして自白を強要したという。

しかし、右三名はこのような事実をいずれも否定し、佐藤警部が東京から捜査本部に戻ったのは一二月五日午前であり、同日午後からは千葉警部補は他の事務に従事するようになったのであるから、三人が同時に取調室にいて原告一夫に対し取調べを行った事実もないし、むしろ本格的取調べを始めてからわずか一日半で自白したので、無理な取調べをする必要もなかったと述べている(<証拠>)。

ところで、後述のように、原告一夫が自白を撤回し再度否認した一二月一五日付のいわゆる否認の手記によれば、「お前がやったんだろう。」と決めつけた言い方で取り調べられ嫌になったこと、一〇月一七日晩の記憶がどうしても思い出せず頭の中が混乱したこと及び高橋二郎から自白を示唆されたことが自白の動機である旨が記載されているが、自白した理由として暴行脅迫等、強制のあった事実については全く触れられておらず、むしろ亀井警部に対し、「係長(亀井)さんに親切にされ」たために本当のことを言えなかったとか、「係長さんと話をすればするほど、あっこういう人かと、初めから本当の事を申し上げよう」と何度も思ったと亀井警部の人間性を評価しているとも読み取れる部分があり、暴行脅迫等をなし、または他の捜査員がこれを行うのを容認していた捜査員に対する態度とは考えられないものである。また、前記高橋二郎の供述調書ないし証言調書によっても、取調べから房に戻った原告一夫が、暴行脅迫を受けたとか自白を強制されたとか取調べの方法態様に関して不平不満を述べたような事実はまったく窺われない。さらに、仮に警察で自白の強要がなされたのであれば、検察庁ないしは裁判所における取調べの際、そのことを訴えることができたのではないかと思われるのに、一二月一〇日の松山事件に関する検察官の弁解録取においても、裁判官の勾留質問においても、また、一二月一一日、服部検事に対し松山事件の犯行の全容を供述した際にも、一二月一三日の検察官による夜間検証の際にも、そのような訴えはしていないようであり、むしろ素直に自白していたことが窺われ、「警察で無理な取調べが行われた」旨の主張は、自白を撤回した後に検察官に対し初めて行ったものと認められる(<証拠>)。

以上を総合すれば、捜査員の取調べが厳しいものであったとしても、それが社会通念上自白の強制というべき程度のものであったと認めることはできず、また、それが原告一夫にとって自白を余儀ないと感じさせるような威力の行使ないしは脅迫であったと認めることはできない。

(3) 以上のとおりであるから、原告一夫が複数捜査員により自白を強制された旨の原告らの主張は採用することができない。

(三) 偽計による取調べについて

(1) 原告一夫の供述するところによれば、昭和三〇年一二月二日朝、板橋署へ任意同行した当初から、一〇月一七日晩に鹿島台駅を降りてからの行動を質されたが、思い出せなかったので、家に帰って寝たのだろうと思い、「家に帰って寝た。」と述べたところ、「家には帰っていないはずだ。家族は帰っていないと言っている。」と言われたので、それでは外泊したのだろうと思い、「母の家に泊まった。」と供述し、その後松山派出所や古川署における取調べでも、「家族は家には帰っていないと言っている。」と捜査員から言われたので、今までに外泊したことのある家などに泊まったと述べたという(右にいう「母の家」とは、当時原告一夫の両親である虎治と原告春子が、原告一夫の妹二人を連れて別居していた、別に設けた製材店のことである。このため、原告一夫は、兄常雄夫婦と祖母きさ及びその他の弟妹ら一〇人と共に住所地に起居していた。)。

前記1(二)(4)認定のとおり、原告一夫は、佐藤警部が一二月二日板橋署で事情聴取した際、すでに「母の家に泊まった。」旨述べていたこと(<証拠>)、千葉警部補による一二月五日の取調べにおいては、「一〇月一七日の晩、鹿島台の駅を降りてから家に帰った記憶がない、まったくその後の記憶ははっきりしない。」と供述していたこと(<証拠>)、その後一二月六日にかけては、「母の家に泊まった。」、「柴さんの家に泊まった。」というアリバイ主張を変転させたこと(<証拠>)が認められる。

そして、「母の家に泊まった。」とか「柴さんの家に泊まった。」というアリバイ主張は、原告一夫自身、裏付捜査により崩される可能性を予測できたのではないかと思われるものであるから、兄嫁甲野美代子の一二月三日付員面調書(<証拠>)から認められる原告一夫の日常生活(原告一夫は、外出して遅くなることは珍しくなかったが、外泊することは滅多になかったという。)からすれば、むしろ「家に帰って寝た。」というアリバイ主張があってもよいと思われるのに、自白する以前の供述調書でそのようなアリバイ主張を内容とするものは存在せず、一二月五日には千葉警部補に対して「家に帰った記憶がない、まったくその後の記憶ははっりしない。」と、家に帰った可能性も否定しないかのように述べているのに、その前後の一二月二日と一二月六日には、佐藤警部に「母の家に泊まった。」と供述しているのは、前記原告一夫の供述に符合するものということができる。

もっとも、原告一夫が一二月二日板橋署において述べた「母の家に泊まった。」旨の供述は、詳しくは、「その晩は相当酔っ払っていたからあまり記憶にないが、母のところに行ったときには父は不在で、母と妹の征子の二人が店に寝ていた。布団は二間敷かれてあり、妹の脇が空いていたからそこにもぐり込んですぐ寝たが、自分が帰ったことを母や妹が知っていたかどうかは分からない。翌朝明るくなってから起床し、自転車に乗って帰宅した。」(<証拠>)というものであり、かなり具体的であって、「家族は帰っていないと言っている。」と捜査員から言われたために母の家にでも泊まったのかと思いその旨供述したというような内容とは認めにくいこと、また、弁論の全趣旨によれば、原告一夫は母である原告春子を最も頼りにしていたと認められるから、アリバイ証言をしてくれそうな人間として母を最初に思い付いたとしても不自然ではないことなどからすると、原告一夫が板橋署において当初から「家に帰って寝た。」と主張した事実をただちに認めることはできない。しかし、原告一夫がまるで手当たり次第に、他の証拠から明らかに虚偽と認められるアリバイ主張を行っていることからすると、自白する以前に一度も「家に帰って寝た。」という主張をしなかったとは到底考えにくく、にもかかわらずこの主張が調書に残されていないことからすれば、自白する以前にそのような主張をしたけれども、その主張を捜査員が排斥したということを推認でき、その排斥の方法としては、「家族は家に帰っていないと言っている。」ということ以外には考えにくいのであるから、原告一夫の供述は、その限度では信用できるものというべきである。

(2) 思うに、確たるアリバイのない被疑者が「家にいた。」と主張するのに対し、捜査員が「家にはいなかったはずだ。」という程度のことを言って追及することは、アリバイテストとして許容される範囲内のことであると考える。これに対し、家族が言ってもいないのに、「家族はその晩被疑者は家に帰っていないと言っている。」と述べることは、著しく妥当性を欠くものといえよう。

けれども、右のような言葉は一般にただちに被疑者に自白を余儀なくさせるようなものではないと考えられるのであるし、後述6(一)のとおり、家族の供述によっても、原告一夫が事件当夜帰宅していた事実を認めることはできず、また、原告一夫が事件当夜の記憶がないというのはやや不自然な印象を拭い難いことからすると、当時同様な認識にあったであろう捜査員としては、「事件当夜の行動を思い出せない。」という原告一夫の弁解をただちに信用しなかったとしても無理からぬことであり、また、「家にいた。」という供述が確実な記憶に基づくものであるかどうかを確かめる必要のあったことも否定できず、かつ、右のような言葉が原告一夫の精神状態を混乱させ、虚偽の自白をさせることになるとは到底予想しえなかったと思われるのであるから、そのような状況下で出た言葉として評価する限り、なおこれを国家賠償法上違法ということはできないものと解する。

(3) よって、原告一夫に対する取調べが偽計によるものであり違法であるという原告らの主張は採用することができない。

(四) 誘導による取調べについて

(1) 原告らが誘導質問による供述であると主張する凶器とされた薪割の置いてあった場所についの供述、及び犯行時の着衣を帰宅後置いた場所についての供述は、後述三2(六)(1)及び(14)のように確かに変遷が著しいことが認められる。しかし、捜査員が誘導により供述させようとしたのであれば、客観的な証拠に適合するような供述を最初から誘導したはずであり、むしろ供述が変遷を繰り返した事実は、原告一夫が自ら供述した事実について裏付捜査をしたところ、他のより信用性の高い証拠との不一致が認められたことから、問い詰めた結果であると認められる。自白が他の証拠との矛盾を生じるときに、その点を問いただすことは、捜査員として当然行うべきことであり、違法とはいえず、供述の変遷をどのように評価すべきであるかは、また別の問題である。

しかし、後述6(七)のように、殺害方法についての供述は、他の供述部分に比較して詳細であって、あたかも被害者らの受傷部位に関する鑑定結果と符合する内容であり、捜査員による誘導を思わせないではなく、この他にも後述三2(六)(6)及び(7)のように捜査員による誘導を疑わせる供述部分が存する。

そこで、捜査員が被疑者に対する取調べにおいて誘導質問を行うことが違法となるのかが問題となる。

(2) 思うに、刑事訴訟規則により、公判廷における証人尋問(特に主尋問)において、誘導尋問が原則として禁止される趣旨は、証人が尋問者との友好関係などから、尋問者の求める供述内容を知り、これに従った供述をする危険があるからであると考えられるから、捜査員による被疑者の取調べの場合に右趣旨が必ずしも妥当するものとはいえないと考える。

しかし、捜査員による取調べにおいても、被疑者を含めて、取調べを受ける者が虚偽の供述をする危険があるのであるから、捜査員としては、これを防止するために、重要な供述部分については、誘導質問を極力行わないようにし、自ら述べさせるようにして、記憶に基づく供述であるか否かをテストすることが望ましいし、その供述を調書に記載する場合には、後日閲読する検察官、裁判官等が、その信用性判断を正確に行えるようにするため、問いと答えを正確に記載することが望ましい。

けれども、捜査員による供述調書の作成は、供述者との対話、質疑応答の末にこれをまとめるものとして行われるのが通常であるから、誘導質問を規制することは事実上困難であるし、むしろ、供述者の記憶が曖昧な事実や供述を回避しようとする事実については、誘導を行うことが必要な場合もあるのであるから、捜査員が個々の質問を行うに際し、誘導質問を行うことが適切な場合であるか否か、また自己の発しようとする質問が誘導質問に該当するか否かを判断して誘導質問を規制すべき法的義務があるということはできないというべきであり、法規上もこれを行うことを違法視すべき根拠はない。

ただし、捜査員が、被疑者を取り調べる場合に、被疑者が真犯人であるか否かが問題になっている事件であるにもかかわらず、そのことに頓着せず、客観的証拠と矛盾することのない自白調書を得ることにのみ執着し、記憶の正確性をテストせず、その供述の大部分を誘導により述べさせるような取調べを行うことは、被疑者の供述態度の如何によっては、誤判の原因となりうる一般的な危険を有するものというべきであり、捜査員としての職務上の義務に違反する違法な行為というべきである。

そこで、捜査員が原告一夫に対する松山事件の取調べにおいて誘導質問により供述させた疑いのある供述部分について検討するに、後述三2(六)のとおり、これは原告一夫の自白のうち部分的なものにとどまり、むしろ原告一夫が自発的に述べたと思われる部分も多々認められるのであるから、捜査員が右のような違法な取調べを行ったと認めることはできず、捜査員が誘導質問を行ったことがあったとしても、それは取調べの巧拙の問題にとどまるというべきである。

(五) まとめ

以上のとおりであるから、捜査員の原告一夫に対する取調べの方法態様に違法があったということはできない。

4 ジャンパー、ズボンの取扱いについて

原告らは、請求原因3(四)のとおり、「平塚着衣鑑定の結果は、本件ジャンパー、ズボンには血液の付着は認められないというものであり、原告一夫の自白と矛盾していたのであるから、捜査員は、原告一夫の合理的嫌疑のないことを知り、または知ることができたのに、その鑑定結果の意味を究明することを怠った。これは誤判の一原因となった違法行為である。」と主張し、これに対し被告県は、「本件ジャンパー、ズボンは、事件当夜の原告一夫の着衣であると認めるに足りる証拠はなかったのであるから、平塚着衣鑑定の結果は原告一夫の嫌疑を否定するものではなかった。」と主張して争うので、以下検討する。

なお、原告らは、検察官の公訴提起に関する責任について、請求原因4(二)(4)のとおり、右とほぼ同様の主張をし、これに対し被告国は、被告県と同様の主張のほか、「当時の法医学の水準によれば、洗濯により血痕反応が消失した可能性もあるという判断は不合理ではなかった。」旨の主張をして争うので、ここで併せて検討する。

(なお、本項を含め、本判決において、捜査員の犯罪事実に関する証拠の判断が誤りであるか否かということについて検討するに際しては、捜査活動が警察職員と検察官とによりそれぞれ相補いながら行われるものであり、その結果収集、保全された証拠は、検察官による起訴、不起訴という終局処分の資料として集約されるものであることから、原則として、捜査員の収集した証拠のみではなく、検察官の収集した証拠をも検討資料に加えることとする。)

(一) 問題の所在

原告一夫は、事件直後に返り血がヌラヌラするほど着衣に付着していることに気付き、大沢堤で洗濯したと供述していた(<証拠>)。本件ジャンパー、ズボンは、それぞれ押収された後、一二月九日、平塚静夫の鑑定に付され、同月一二日血液の付着は認められないという鑑定結果が出ていた(<証拠>)。また、本件ジャンパーは、事件後の一〇月二七日ころ兄嫁美代子により、本件ズボンは一一月一五日ころ上部道子により、それぞれ一回ずつ洗濯されていたことが認められた(<証拠>)。

これら事実を前提として、当時の捜査員及び検察官(以下総称して「捜査官」という。)が原告一夫に合理的嫌疑のないことを知るべきであったか否かが問題となるが、具体的には、

① 原告一夫が自白していた際に事件当夜の着衣であったと述べていたものが、本件ジャンパー、ズボンを意味するものであるか否かという点(着衣に関する自白の解釈の問題)

② ①が肯定されるとして、本件ジャンパー、ズボンが事件当夜の本当の着衣であるか否かという点(着衣に関する自白の信用性の問題)

③ ②が肯定されるとして、二回の洗濯により血痕反応が消失したものでない蓋然性が高いことを、さらに鑑定することなく、捜査官が知りえたか否かという点(当時の法医学の水準の問題)

④ ②が肯定され、③が否定されるとして、二回の洗濯によって血痕反応が消失するかどうかを、さらに捜査官が鑑定すべきであったか否かという点(捜査としてなすべきことの限界の問題)

が順次問題となる。

他に、着衣への返り血の付着の有無、程度も問題となりうるが、松山事件において有罪認定の決定的な物証とされた掛布団襟当の血痕は、同原告の頭髪に浴びた返り血が二次的三次的に付着したものであると考えられていたことからすると、返り血が頭髪に付着しながら着衣に付着しないとは考えにくいから、同原告が真犯人であるとすれば、相当量の返り血が着衣に付着したことは動かし難い前提としなければならない。

被告らは、前述のとおり、まず右①及び②の点について争うので、まずこの点から検討する。

(二) 関係証拠

(1) 事件当夜の着衣について、原告一夫は、

① 一二月二日、板橋署において、佐藤四郎警部に対し、「白ジャンパーに空色ニッカズボン」(<証拠>)と、

② 同月五日、千葉警部補に対し、「えび茶色セーターに茶色ズボンを着て行ったと思う」(<証拠>)と、

③ 同月六日、亀井警部に対し犯行を自白した際、「鼠色ジャンパーに綿製茶色ズボン」(<証拠>)と、

④ 同月九日、亀井警部らによる供述録音に際して、「空色ジャンバーに茶色ズボン」(<証拠>)と、

⑤ 同月一一日、服部検事に対し、「鼠色ジャンパーに茶色ズボン」(<証拠>)と、

⑥ 同月二一日(自白撤回後)、服部検事に対し、「鼠色ジャンパーに茶色ズボン」(<証拠>)と、

それぞれ述べている。

(2) 一方、事件当夜午後六時過ぎころから午後九時四五分ころまで行動をともにしていたと認められる加藤浩は、その夜の原告一夫の着衣について、

① 一二月三日、安藤春吉巡査部長に対し、「鼠の色あせた木綿ジャンパーと同じ生地の長いニッカズボン」(<証拠>)と、

② 一二月一五日、服部検事に対し、「特に注意して見たわけではないのではっり印象に残っていないが、上着は白っぽい鼠色のあせたようなボタン付のジャンパーで、ズボンは白っぽいニッカズボンであったような気がするが、また褐色の普通のズボンであったような気もする」(<証拠>)と、

③ 一二月二五日、佐藤巡査部長に対し、「その頃の一夫さんの服装は、白っぽいジャンパーに同色のズボンと記憶している」(<証拠>)と、

それぞれ述べている。

(3) また、原告一夫の兄嫁甲野美代子は、一〇月一七日晩の原告一夫の着衣について、

① 一二月三日、高藤巡査部長に対し、「一〇月一七日は朝食後一夫はどこかに出掛けた。そのときの服装ははっりしないが、ただ鼠色のニッカズボンを履いたのだけは記憶にある。履物ははっきりしないがゴム長靴ではないかと思う。午後五時ころ帰って来たが、一人で先に夕食を済ませた後、六時ころまた出かけた。」(<証拠>)と、

② 一二月七日、同じく高藤巡査部長に対し、「朝食後、白っぽいジャンバーに鼠色のニッカズボンにゴム長靴を履いて出かけたようだった。午後五時ころ帰宅して夕食後出掛けたが、その時の服装も午前中出掛けた時と同じ服装と思う。」(<証拠>)と、

③ 一二月八日、大友巌巡査部長に対し、「午後五時ころ帰って着て一人でご飯を食べ終わるとすぐまたどこかへ出掛けた。その時の服装は、気をつけて見ていなかったのでよくわからないが、鼠色のニッカズボンだけは記憶している。」(<証拠>)と述べ、

④ 一二月一六日、高橋副検事に対しても右③同様の供述をしている(<証拠>)。

(4) そして、当時の原告一夫が使用していた着衣は、甲野美代子の供述によれば、次のとおりであるという(<証拠>)。

① 鼠色ニッカズボン

② 紺色ニッカズボン

③ 黒サージズボン

④ 紺サージズボン

⑤ 黄色っぽいサージズボン

⑥ 白っぽいジャンパー

⑦ 黒っぽいジャンパー

⑧ 黒海老セーター

⑨ 黄色ピッケYシャツ

なお、右供述に際し、美代子は、「①ないし⑨は、私が洗濯したことがあるので覚えているのだが、或はその他にも衣類を持っているかも知れないがよく覚えていない。」とも述べている。

(三) 検討

(1) 事件当夜の上着についての原告一夫の供述

まず、原告一夫が右(二)(1)のとおり事件当夜の上着として供述している、「白っぽいジャンパー」、「空色ジャンパー」、「鼠色ジャンパー」は、それぞれ異なるものを表現しているのかどうかが問題となる。

前記のように、加藤浩の供述中には、原告一夫の当夜着用の上着について、「白っぽくあせたような鼠色のジャンパー」という表現が認められること、原告一夫が当時持っていたジャンパーは、前記甲野美代子の供述によれば、「白っぽいジャンパー」と「黒っぽいジャンパー」の二つであるらしいことからすると、「鼠色ジャンパー」というのが「黒っぽいジャンパー」のことである可能性を完全に否定することはできないものの、前記三つのジャンパーは、同一のものを表現を変えて述べたものである可能性が高いというべきである。

そして、本件ジャンパーは、「黒っぽい」という形容ができないことは明らかであり、弁論の全趣旨によれば、「白っぽいジャンパー」、「空色ジャンパー」、「鼠色ジャンパー」という形容がいずれも特に不自然ではないものと認められるから、原告一夫は当夜着用の上着について、一二月五日の「えび茶色セーター」という供述を除き、自白の前後を通じて一貫して本件ジャンパーであると供述している可能性が高いということができる。もっとも、前記三つのジャンパーが同じジャンパーのことを表現したものとすると、なぜ異なる三つの表現をしたのか、合理的な理由は考えにくく、これらが同一のものであると断定することまではできず、また、これらが本件ジャンパーを意味するものであるかについても、原告一夫に現物を指し示して確認させたり、その特徴を具体的に供述させたりしていないのであるから、必ずしも確実とは言い難い点も存する。

(2) 事件当夜のズボンについての原告一夫の供述

次に、原告一夫の事件当夜履いていたズボンについての供述は、自白する前日に茶色ズボンと述べた後、自白していた間も一貫して茶色ズボンと述べ、自白を撤回した直後にも茶色ズボンと述べていること、本件ズボンは薄茶色であって、「茶色ズボン」という形容が適当であり、美代子の供述する当時原告一夫が持っていた衣類の中には「茶色ズボン」というものがないが、「黄色っぽいサージズボン」という表現がこれに該当するのではないかと思われ、他に「茶色ズボン」という形容が適当なものは見当たらないことからすると、原告一夫は、当夜履いていたズボンは本件ズボンであると一貫して供述している可能性が高いということができる。

しかし、ジャンパーと同様、本件ズボンも原告一夫に指し示したりしているわけではないので、「茶色ズボン」が本件ズボンであることが確実であるとまではいえない。

なお、原告一夫は、逮捕当日の一二月二日には、「空色ニッカズボン」とも述べており、犯行を否認していた段階においても変遷が認められる。

(3) ところで、原告一夫が犯人であると仮定した場合には、着衣に関する同原告の記憶は正確である可能性が高く、また、同原告の自白を考慮しない場合であっても、前述のとおり着衣に返り血を浴びたことは動かし難い前提としなければならない。

すると、同原告が犯行を否認していた段階では、事件当夜の着衣について真実を述べなかった可能性が高いと考えられる。なぜなら、<証拠>によれば、同原告は、自白する前に着衣の血痕鑑定一般について高橋二郎に質問した事実が窺われ、以前から血痕鑑定というものがあるという程度の知識は有していたようであって、犯行を否認しながら血痕の付着している可能性のある着衣を事件当夜の着衣であると供述するとは思われないからである。

これに対し、犯行を自白していた段階には、着衣に限って真実を述べなかったという可能性は比較的低いと考えられる。

以上を前提とすると、前記(1)及び(2)のとおり、原告一夫が自白の前後を通じて当夜の着衣についてほぼ一貫して本件ジャンパー、ズボンと述べていると思われる点は、原告一夫が犯人であるという前提からするとやや不自然であるし、否認している段階において着衣についての供述が変遷している点も、原告一夫が当夜の着衣を正確に記憶していなかったのではないかと思わせないではなく、不自然な印象を否定できない。

しかしながら、重大犯罪の犯人は証拠を隠滅しようとするのが普通であり、犯行により着衣に血痕が付着したなら、もったいないと思ってもこれを廃棄隠匿する場合が多いと思われ、原告一夫にはそうするための機会はいくらでもあったといえること、実際、高橋二郎の一二月七日付員面調書(<証拠>)によれば、原告一夫は捜査員に自白した後、留置場内で高橋に対し、「ジャンパーは焼いてしまった。」と述べていた事実が窺われること、後述三2(六)(15)のとおり、帰宅後着衣を置いた場所についての供述に変遷が認められ、これは、着衣に関して真実を述べようとしない態度と評価しえないのではないことからすると、捜査官は、原告一夫が自白していた際にも着衣について真実を述べなかった可能性があると考えたとしても不合理ではないというべきである。

もっとも、それでは原告一夫が事件後に廃棄隠匿した着衣があるのかが次に問題となるが、当時の同原告の所持していた限られた上着、ズボンの中でなくなったものがあれば、兄嫁美代子が気付き、捜査官に供述したのではないかと思われるのに、美代子は、「黄っぽいサージズボンが事件以後見当たらない。」と供述していただけであり(<証拠>)、黄っぽいサージズボンが前述のように本件ズボンであるとすれば意味はないし、他に事件後になくなった衣類はないかのようである。しかしながら、美代子は、「(原告一夫は)他にも衣類を持っているかも知れないが、よく覚えていない。」と、記憶に自信がないような供述をしていたうえ、美代子が親族であることからその供述に全面的に依拠しえないと判断したとしても無理はなく、捜査官としては、原告一夫が事件後に着衣を廃棄隠匿した事実はないと断定することはできなかったというべきである。

(4) 前記美代子と加藤浩の事件当夜の原告一夫の着衣に関する供述は、「白っぽいジャンパー」と「白っぽい鼠色のニッカズボン」であった可能性が高いという趣旨でほぼ一致しており、特に美代子は、「ズボンは鼠色ニッカズボンであったことは記憶している。」と供述している。「鼠色ニッカズボン」が本件ズボンと異なることは明らかであるが、「白っぽいジャンパー」が本件ジャンパーを意味する可能性が高いとすると、これらの供述は、事件当夜の原告一夫の上着が本件ジャンパーであった可能性の高いことを補強するものといえないではない。

しかし、右美代子の供述を総合すると、「上着についてははっきりしない。」という趣旨であり、「ゴム長靴」を履いていたということは美代子以外の誰も述べておらず、同女の記憶の正確性に疑問が持たれるし、加藤もまた四〇日以上経過した後に供述を求められたのであり、「当夜原告一夫の着衣を意識して見たわけではない。」というのであるから、二人の供述は、「当時、原告一夫は白っぽいジャンパーと鼠色ニッカズボンを着ていることが多かった。」という程度の趣旨に理解すべきものと思われ、着衣に関する目撃供述は一般に信用性が低いことをも併せ考慮するなら、当時の捜査官がこれら供述の信用性を低いものと考えたとしても不合理ではない。

(5)  以上(1)ないし(4)を総合すると、当時の捜査官は事件当夜の原告一夫の着衣が本件ジャンパー、ズボンであると特定することはできなかったというべきであり、平塚着衣鑑定により本件ジャンパー、ズボンに血痕の付着が認められなかったということ、及び右のような平塚着衣鑑定の結果を知らなかったと思われる原告一夫がいわゆる否認の手記において「係長さんズボン・セーターには血はついてありませんでしたでしょう。」と訴えることができたことから原告一夫の無実を知るべきであったということはできないというべきである。

(四) 洗濯による影響の可能性

(1) もっとも、右のように、原告一夫の事件当夜の着衣に関する供述の信用性が低いとすれば、一面で同原告の自白全体の信用性にも影響することは確かであるから、捜査官としては、自白の信用性を吟味するために、洗濯の影響で血痕反応が陰性になった可能性についても検討することが望ましいことであったというべきである。

(2) そこで、当時の捜査官が平塚着衣鑑定の結果のみから(別に鑑定することなく)、洗濯の影響で血痕反応が陰性になったものではないことを知り得たかが問題となる。

平塚静夫は、第一次再審請求第一審の昭和三七年一〇月二二日の証人尋問調書(<証拠>)によれば、「(平塚着衣鑑定の際に見た印象では、)ジャンパーとズボンは、最初から(血痕は)付いていないような感じであった。」旨を供述しており、さらに、「洗濯したという条件を考慮に入れても、(血痕は)ついてなかったんじゃないだろうか。」とも供述し、あたかも鑑定当時、洗濯により血痕反応が陰性になったものではない蓋然性の高いことを知っていたかのようである。

しかし、同一証言の他の供述部分には、「(本件ジャンパー、ズボンに洗濯する前から血痕が付着したことがあるかないかについては、)実際に実験してみる以外にないと思うんです。」、「(一般論として、洗濯により血痕反応が消失するかどうかについては、)今までの法医学界のデータにはないことなので即答できない。」、「(二回洗濯したという事情を考慮に入れると、本件ジャンパー、ズボンに最初から血痕が付いていなかったとは、)いいかねます。」というものがあり、さらに、「(本件ジャンパーズボン)を洗ってあるというファクターは、初めて聞くものですから。」とも述べている。これら供述を総合すると、前記供述部分は、平塚着衣鑑定の際、肉眼検査の段階で血痕反応は出ないであろうと予測できたという趣旨以上の意味をもつものとは解されず、平塚着衣鑑定の結果が洗濯による影響ではない蓋然性が高いことをその鑑定当時平塚が知っていたということはできないというべきである。

なお、平塚は、第二次再審請求第一審における昭和四六年六月二五日の証人尋問において、「(平塚着衣鑑定に際し、)本件ジャンパー、ズボンが洗濯してあるらしいことは警察から聞かされていた。」旨供述し(<証拠>)、第二次再審請求差戻第一審における昭和五一年五月二四日の証人尋問において、「(平塚着衣鑑定に際し、)検察官の訪問を受け、本件ジャンパー、ズボンを洗ったということ、砂を付けて洗ったということを聞いたような気がする。」旨供述し(<証拠>)、また当裁判所における証人尋問(昭和六三年三月一〇日)においても、「ジャンパーにつきましては、検察官が法医理化学室に参りまして、これは犯人(容疑者)は水で洗っていると、それで何回位洗ったら血液の反応が出なくなるだろうかとそんな類のことを検察官の方が話をなさったように記憶を致しております。」旨供述しており、これらは前記昭和三七年の証言に明らかに矛盾している。しかし、仮にこちらの証言のほうが正しいとしても、平塚が洗濯の血痕反応に与える影響について当時検討した事実はまったく証拠上窺われないのであり、当時、洗濯の血痕反応に与える影響について法医学上知られたデータが存在したと認めるべき証拠はなく、平塚はこの点について「実験しなければ分からない。」旨を繰り返しているのであるから、平塚が平塚着衣鑑定の結果について洗濯の影響によるものではない蓋然性が高いことを知っていたとも、また知りえたとも認めることはできない。そして、平塚が知りえなかった以上、法医学の知識について県警本部鑑識課の職員の学識に依存していた捜査官もまたこのことを知りえなかったというべきである。

(3) そこで次に、捜査官が洗濯の血痕反応に与える影響について鑑定すべきであったかどうかが問題となる。

しかし、仮に本件ジャンパー、ズボンに返り血が付着していたとして、その血痕付着の態様程度、血痕付着後、鑑定までにそれが置かれた環境、それぞれ二回行われたという洗濯の方法程度等の諸条件がどのようなものであったか当時証拠上十分明らかとはいえなかったのであるから、洗濯が血痕反応に与える影響について鑑定したとしても、その結果は一般論について明らかとなるにとどまり、その証拠価値が高いものとなることは予測できなかったと思われるし、およそ捜査活動は、犯罪事実の証明に役立つ証拠の収集を行うのを本来の目的としており、捜査官が被疑者の有罪立証に役立たないことが明らかとなった証拠に対する関心を失うことは非難すべきことではなく、無実を立証するための活動は、制度上弁護人に期待されているというべきであって、ただ、被疑者、被告人の無実を強く推測させるような証拠を入手した場合には、捜査官としてもその証拠の吟味を尽くさなければならないというべきであるが、前述のとおり本件ジャンパー、ズボンが事件当夜の着衣であるとは特定できないのであり、したがって、平塚着衣鑑定の結果が原告一夫の無実をただちに推測させるものとはいえないのであるから、捜査官に右のような鑑定まで行う義務があったと断定することは相当とはいえない。

(五) まとめ

以上のとおりであるから、その余の事実について検討するまでもなく、捜査官が平塚着衣鑑定の結果から原告一夫の無実を知るべきであったとはいえず、また、右鑑定結果が洗濯の影響によるものであるか否かについて鑑定しなかったことが違法であるとはいえない。

5 掛布団襟当の血痕の偽造について

本件掛布団は、後に認定するように、原告一夫の兄甲野常雄方において押収され、東北大学医学部助教授三木敏行の鑑定に付せられ、同助教授の鑑定結果により、その襟当部分にA型の血液型反応を示す人血が多数の血痕群として付着しているとされたものであるが、この血痕群は、捜査、公判を通じて、松山事件犯行時に原告一夫の頭髪に付着した被害者の返り血が二次的に又は更に手指を介して三次的に付着したものと判断され、原告一夫を有罪とする有力な証拠とされたものである。

原告らは、右掛布団の襟当に付着していた血痕群は、警察職員が原告一夫の自白を補強する物証を作るために偽造したものである旨主張する。

そこで原告らの主張について、概ね、掛布団の捜索差押えから時系列に従って検討することとする。

(一) 前提となる事実

まず、右掛布団襟当に関し、<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(1) 古川警察署は、昭和三〇年一二月七日、古川簡易裁判所に対し、当時における原告一夫の居宅である、志田郡<住所略>甲野常雄方及び原告一夫の両親宅である同町<住所略>原告春子方での「血痕付着の本人が使用したと思料される夜具類及び履物並に本人の記帳せるメモ類」の捜索差押許可状の発布を請求し、同日、その旨の許可状を得た。同警察署巡査部長佐藤三郎らは、同月八日午後一時三〇分から一時五〇分まで原告春子方を捜索したが、差し押さえるべきものを何も発見できなかった。更に同日午後二時二〇分から三時まで、常雄方を同人立会いの下で捜索した結果、居宅内奥八畳間押入から原告一夫が使用していたと思われる掛布団(本件掛布団)及び敷布各一枚を発見し、差し押さえた。

(2) 古川警察署は、同月九日、古川簡易裁判所に対し、右掛布団、敷布及び男下駄二足について、鑑定処分許可状の発布を請求し、同日、その旨の許可状を得たうえ、東北大学医学部法医学教室助教授三木敏行の鑑定に付した。鑑定事項は、「1血痕付着の有無、2付着しているとすれば人血なるや否や人血なればその血液型、3付着状況の詳細、4血液は被害者のものであるかどうか、5血液付着の時期、6その他参考事項」であった。右掛布団等の鑑定資料は、宮城県警察本部鑑識課員菅原利雄が東北大学医学部法医学教室に持参し、同所において三木助教授に引き渡した。

(3) 三木助教授は、鑑定作業に直ちに着手した。同月二〇日午前一〇時三〇分、仙台地方検察庁古川支部検事服部九郎から三木に対し、鑑定の結果を得るまで何日を要するかにつき電話による照会があり、三木は以後四、五日を要する旨回答した。そこで、服部検事は、古川簡易裁判所に対し、被疑者が使用していた布団に付着している血液の血液型鑑定の結論を得るまでにまだ数日を要し、その結果を得なければ起訴不起訴を決することができないとして、勾留延長を請求し、原告一夫に対する勾留期間は一〇日間延長された。

同月二六日付で、三木は服部検事に宛てて、電話で、「甲野一夫が使用せる布団に付着せる血液については目下鑑定中なるも結果の見通しについては次のとおりの見込みである。容疑者甲野一夫のものではない。被害者四名の血液なりと見るも矛盾しない。」旨連絡した。

同月三〇日、原告一夫は、仙台地方裁判所古川支部に起訴された。

(4) 三木は、昭和三二年三月二三日付で鑑定書を作成した。同鑑定書によれば、鑑定のための期間は、昭和三〇年一二月九日から昭和三一年一月一五日までの三八日間と昭和三二年三月二日から同年三月二三日までの二二日間、合計六〇日間であった。鑑定の結論は、「1掛布団の襟当部に血痕を認めるが、襟当以外の部分には血痕の存在を立証しえない。2襟当には人血が付着していると考えられる。この血痕が一名の血液に由来するのであれば、その血液型はA型で、二名以上の血液に由来するのであれば、それらの血液型はすべてA型であるか、A型とO型の人が混在したと考えられる。3襟当には微細な血痕が多数散在し、布団の表面側には三五群、裏面側には五〇群ある。一般に右側に多く、中央部では疎で、表面側より裏面側に多い。不規則にあり、一定の配列は認められない。個々の血痕は何れも少量の血液を擦り付けたり、微量の血痕を圧しあてたり、あるいは軽く接触することにより生じたもので、血液が噴出、あるいは滴下して生じたのではないと考えるのが妥当である。襟当全般の血痕の付着状況から現実にどのようにして血痕が生じたかを明らかにすることは困難であった。4四名の被害者のうち、小原忠兵衛のみの血液が付着したことは否定してよい。他の三名の被害者小原よし子、同淑子、同優一の内の一名の血液が付着した可能性、四名の被害者のどの二名ないし三名の血液が共に付着した可能性、四名の血液がすべて付着した可能性はあると思われる。襟当に血液が付着後検査時(昭和三〇年一二月一二日)までの経過期間は明らかにし難いが、十数日ないし一か年と思われる。5敷布、男下駄二足には、血痕の付着を立証し得ない。」というのであった。

(5) 三木鑑定書は、確定第一審の第一八回公判期日(昭和三二年五月九日)において、検察官から証拠調請求があり、同期日において採用され、取調べが行なわれた。

なお、これより先の同年四月三〇日に、鑑定内容につき、証人三木敏行の出張尋問が行なわれた。

(6) 三木鑑定とは別に、古川警察署は、昭和三〇年一二月二二日、古川簡易裁判所に対し、本件掛布団について、血痕付着の有無等前記三木敏行による鑑定と同一事項の鑑定処分許可状の発布を請求し、同日、同裁判所からその旨の許可状を得たうえ、宮城県警察本部鑑識課技師平塚静夫に対し、鑑定の嘱託をした。平塚掛布団鑑定書の記載によれば、同人は、同日から翌二三日まで県警本部刑事部鑑識課において鑑定を行い、同月二八日付で「鑑定資料の掛布団の裏には、人血液が付着していないものと認める」との鑑定書(平塚掛布団鑑定書)を作成した。

しかし、同鑑定書は、確定審において証拠として提出されることなく経過した。そして、第二次再審請求事件差戻審において、弁護人からの要請により、昭和五一年四月二一日付で検察官から、同鑑定書を含む平塚掛布団鑑定に関する証拠調請求があり、同年五月二四日、裁判所において、その取調べが行われた。

(二) 掛布団は原告一夫の使用していたものか

原告らは、請求原因3(五)(1)アのとおり、「本件掛布団は、事件当時も原告一夫の弟彰が使用していたものであり、原告一夫が使用していたものではない。」旨主張する。

(1) <証拠>によれば、次の事実が認められる。

ア 古川警察署捜査兼鑑識係の佐藤三郎巡査部長は、松山事件の捜査の実質的な統括者であった同署刑事係長の亀井八郎警部の指示により、同署鑑識係の熊谷三夫巡査及び後藤四夫巡査並びに県警本部鑑識係長の命により当日臨時に応援することとなった県警本部鑑識課現場係長兼写真係長の菅原五夫警部補の三人とともに、昭和三〇年一二月八日午後、原告一夫の使用していた寝具等の捜索差押えを実施するため、同署の自動車に乗って原告春子方及び甲野常雄方に赴いた。

イ 出発する前に、古川署において、菅原は、他の捜査員に対し、「原告一夫の自白したところによれば、同人は犯行後髪を洗わなかったということなので、同人の髪に付着した被害者の返り血が寝具に二次的に付着した可能性がある。」旨述べた。

ウ 捜査員らは、まず原告春子方を捜索し、差し押さえるべき物を発見できずにこれを終了した後、午後二時ころ常雄方に到着したが、そのとき同人方には、原告一夫の祖母きさ、常雄らが在宅していた。捜査員らが捜索差押令状を示してその趣旨を告げると、家人から奥八畳間に案内され、きさが北側押入の下の段の上から二枚目にしまってあった布団を、原告一夫が東京に行くまで使用していた掛布団であると指示したため、菅原が押入れにしまってある状態の掛布団をまず写真に撮影した。次に後藤四夫が掛布団を押入れから取り出し、奥の間の中央付近に広げ、再び写真を撮影した(乙第八号証の一四(佐藤三郎作成昭和三〇年一二月八日付捜査差押調書)には、掛布団が被疑者(原告一夫)使用のものであることについて、きさのほか立会人である甲野常雄もその旨申し立てているとの記載がある。しかし、<証拠>によれば、常雄がその掛布団の原告一夫使用のものであることを承知していたのではなく、原告一夫の布団の上げ下ろしをしているきさに聞いたらそうだというので警察官にそのように答えたというのであるから、原告一夫使用の掛布団であることを熟知した上で指示したのはきさのみであると認められる。)。

(2) これに対し、<証拠>によれば、次の事実が認められる。

ア 原告一夫の弟甲野彰は、昭和三〇年一二月一六日、仙台地方検察庁古川支部に呼ばれた際、同月八日に押収された掛布団は、彰の使用していたものである旨述べた。

イ 翌一七日、同地検古川支部の検事らが常雄方を訪れ、常雄の妻美代子に対し、彰が当時使用していた布団を見せて欲しい旨申し入れた。美代子は、彰が使用していた布団及び敷布各一枚ならびに同じく原告一夫の弟である勝の布団および敷布各一枚を任意に提出し、検事らは古川警察署の名でこれらを領置した。なお、彰および勝が使用していた布団と敷布は、同日、美代子に対し仮還付された。

(3) また<証拠>によれば、次の事実が認められる。

ア 原告一夫は、起訴前の勾留期間中に、担当検事から布団二枚を見せられ、「おまえの布団はどれだ。」と尋ねられた。原告一夫は、自分の布団がどのようなものか分からないが、示された布団は自分のものではないようであったので、「これは自分の布団のようではない。」と答えた(右問答の日時について、原告一夫は、右上告趣意書中で、昭和三〇年一二月二五、六日ころと述べているが、前記(2)の認定事実に照らせば、同月一七日の記憶違いであると認められる。)。

イ 原告一夫は、昭和三一年二月六日、仙台地方検察庁古川支部において、大津十郎検事に対し、昭和三〇年一〇月ころ使用していた布団について、「祖母のきさが毎日布団の上げ下ろしをしていたので、きさが一番判る。自分は毎日遅く帰って来るのでよく覚えていない。(前記昭和三〇年一二月八日付捜索差押調書添付の掛布団の写真を示されて、)写真にとられている布団は、自分が使用していたもののように思うが、写真なので断言はできない。」と供述した。

(4) 以上のとおり、原告一夫が上京前に使用していた寝具の捜索差押えを行った捜査員の佐藤三郎らは、常雄方において、毎日原告一夫らの布団の上げ下ろしをしていたきさの指示により、原告一夫が上京前に使用していたと認められる本件掛布団及び敷布を差し押さえたこと、その後、原告一夫の弟である彰が、捜査員に対し、差し押さえられた掛布団は彰の使用していたものである旨述べたため、捜査員は、常雄方において、常雄の妻美代子から彰及び勝が使用していた布団等の任意提出を受け、これを原告一夫に示したが、原告一夫はこれを自分が使用していたもののようではない旨述べたこと、原告一夫は、起訴後である昭和三一年二月六日に、検察官に対し、家族の誰がどの布団を使用していたかにつきもっともよくわかるのはきさである旨供述していること、また本件掛布団の写真を示されて、自分が使用していたものである可能性を否定しなかったことが認められ、これらの事実を総合すると、本件掛布団は事件当時原告一夫が使用していたものと認められ、彰が使用していたと認めることはできない。

ところで、右捜索差押当時、原告一夫が上京してから既に一か月以上経過していたのであるから、原告一夫の寝具であれば他の家族の寝具の下に収められているべきものとも思われるところ、前記(1)ウ認定のとおり、本件掛布団は上から二枚目の比較的取り出し易い位置にあったと認められるが、このことについては、前記きさの指示説明を疑うべき事情とまではいえないし、前記のとおり、彰の申立てによれば、差押え当時、同人が本件掛布団を使用していたというのであるから、原告一夫が上京した後、彰が本件掛布団を使用していた可能性もあり、そうとすれば一層、右事情は問題とするに足りない。

なお、<証拠>によれば、本件掛布団の襟当に付着していた血痕の血液型はA型もしくはA型とO型であるところ、原告一夫及び彰のいずれの血液型もB型であることが認められるから、右血液型は、原告一夫又は彰のいずれが本件掛布団を使用していたかについての決め手となるものではない。

また、古畑鑑定書によれば、掛布団襟当の血痕が付着していない部分から抗B、抗O凝集素だけを強く吸収する傾向があることが認められ、したがって、当該部分にB型の分泌型の体液が付着していたと推認することができるところ、<証拠>によれば、原告一夫の血液型はB型の非分泌型であるが、彰のそれはB型の分泌型であることが認められる。しかし、<証拠>によれば、分泌型と非分泌型の区別は明確にされているものではなく、その中間形態ともいうべき移行型もありうること、非分泌型に分類されるものでも、個体差があって、型物質を全く分泌しないわけではなく、僅かながらも長期間にわたり分泌した型物資が付着し、それが蓄積されるときは型物質の吸収反応を起こす可能性があることが認められるし、前記のとおり、原告一夫の上京後に彰が本件掛布団を使用したことがあったとすれば、その際にB型の分泌型である彰の体液がこれに付着した可能性も否定できないのであるから、原告一夫の血液型がB型の非分泌型であるのに、本件掛布団にB型の分泌型の体液が付着していると推認されることは、本件掛布団を事件当時原告一夫が使用していたとの前記認定を左右するものではないといわなければならない。

(5) よって、原告らの右主張は採用することができない。

(三) 血痕の数に関する疑惑について

原告らは、請求原因3(五)(3)のとおり、「三木鑑定に付する以前に本件掛布団の血痕を見た警察職員らの証言によれば、血痕様斑痕の数についての印象は、『あまり多くない』というものであったのに、三木鑑定によれば、八〇余り存するという鑑定結果となっており、不自然である。」旨主張する。

(1) 本件掛布団の捜索差押えに立ち会った捜査員らは、掛布団の襟当に付着していたという血液について、それぞれ次のとおり供述している。

ア 佐藤三郎は、確定第一審第二三回公判(昭和三二年九月七日)において、「えり掛に血痕が付着していた。何か所であったか忘れたが、相当か所付着していた。」旨供述し(<証拠>)、第一次再審請求事件抗告審における証人尋問(昭和四〇年一一月二五日)においても、右と同趣旨のことを述べ、血痕の数又はその分布などについて、「なんでも大きなのが一つ、全般に米粒かごま粒大というか相当部分に付着していたのが認められ、その他もやもやしたもの……血液のようなすれているようなものが認められたのです。」「それはまあ点々ですね。これはそのようにはっきり確認できます。あとはこすれたような部分もありました。……点々とまあ散在してですね。」と供述し(<証拠>)、本件訴訟においても同様の供述をしている。

イ 本件掛布団の写真を撮影した菅原五夫は、第一次再審請求事件抗告審における証人尋問(昭和四〇年九月二三日及び同年一一月二五日)において、「(襟当の状況は、)付着していた面積については言えませんが、汚いという意味ではなく、何度も洗って汚れたという白布に、肉眼で見える非常に小さい黒っぽい褐色の薄ばんだようなものが、ある面積に一つだけでなく見取れました。」「(その状況は、)硝酸銀で指紋を取った時に出るような、一つの線の途中のものは出ませんが一連の点々は流れの感じで出ます。それと同じように襟当を斜光線にして見たら、そうした流れの一群が点々とつらなって見えました。面積はわかりませんがその点々はこのようなものでした。(その状況を甲第八号証一四三九丁のとおり図示)」と供述し、本件訴訟においても同趣旨の供述をしている。(なお、菅原は、本件訴訟において、前記図示したものについて、「血痕の付着した状況を図示したものではなく、硝酸銀で指紋を取る場合に認められる模様がどんなものかと問われたので、それを図示したものである。」と供述しているが、前記再審請求事件における供述の結果に照らすと、本件訴訟における右供述は直ちに採用することができない。しかし、血痕様の斑痕が襟当に存在したとの趣旨については、菅原の供述はほぼ一貫しており、右の点についての供述の変遷が菅原の供述全体の信用性を失わせるものということはできない。)。

ウ 八島(旧姓後藤)四夫は、本件訴訟において、「(本件掛布団を押収した際に、)菅原から『薄れたような感じの血痕様のものが付いているから、見なさい。』と言われて襟当を見たところ、黒褐色の血痕様の斑点が認められた。」と証言している。

エ 以上のように、本件掛布団の捜索差押えに立ち会った捜査員らの供述は、細部に及ぶと必ずしも一致しない点も見受けられるが、差押えの時点で、襟当部分に血痕様の斑点が存在しており、その数も決して少ないものではなかったという点ではおおむね一致しているということができる。

(2) また捜索差押後に本件掛布団を取り扱った警察職員らは、次のように供述している。

ア 確定第一審の第二三回公判(昭和三二年九月七日)における佐藤三郎の証言(<証拠>)によれば、押収された本件掛布団は、一旦常雄方から古川警察署に搬送されたことが認められ、また、<証拠>によれば、押収されたその日(昭和三〇年一二月八日)のうちに、後藤(八島)四夫により古川警察署から県警本部鑑識課に搬送されたことが認められる(この掛布団が県警本部に搬入された時刻について、証人八島四夫は、「午後七時ころであったと思う。」と述べている。<証拠>によれば、八島は、前記捜索差押えの後に、菅原が中心となって行われた実測作業(原告一夫の自白に基づく、犯行現場への往復経路等の実測)に従事、その作業は午後五時ころに終了したことが認められるから、その後古川警察署に戻って掛布団を運搬したとすると、県警本部への搬入時刻が午後七時ころであるとすることに特に時間的矛盾はない。この点について、当時県警本部鑑識課にいた鈴木六夫は、第二次再審請求事件差戻審の昭和五一年六月七日の証人尋問において、「(掛布団が県警本部に搬入されたのは、)午後三時過ぎころ」と供述している(<証拠>)。しかし、同人は、本件訴訟において、「右証言当時既に二〇年以上も経過しており記憶が曖昧であったこと、その時刻の重要性について認識していなかったこと、それが午後あまり早い時刻ではなく、かつそのとき法医理化学室の全員が揃っていたと記憶していたので、退庁時刻の五時よりも前であったと証言当時考えたことから、三時過ぎころと供述したのであって、その供述にはあまり根拠はない。」と証言しており、その説明は一応首肯することができる。)。

イ 証人富谷定儀、同鈴木六夫及び同平塚静夫は、本件訴訟において、右アのとおり県警本部鑑識課の法医理化学室に搬入された本件掛布団は、同室の中央に広げられ、同室の構成員である平塚、富谷らと県警本部刑事部長佐藤七夫、鑑識課長高橋八夫らが順次、肉眼又はルーペにより観察を行ったところ、襟当部分に多数の微小な血痕様の斑痕が認められた旨揃って証言しており、また第二次再審請求事件差戻審における証人尋問において、平塚静夫(昭和五一年五月二四日、<証拠>)、鈴木六夫(昭和五一年六月七日、<証拠>)は、掛布団の襟当に血痕様の斑痕が認められた旨供述している。

ウ 右のように、押収された後に搬入された県警本部鑑識課法医理化学室において本件掛布団を観察した鑑識課員らは、一致して、その色調から血痕と思われる斑痕が認められた旨供述しているのである。

(3) 他方、三木鑑定書(<証拠>)は、掛布団の襟当に血痕が八十数個付着しているとしている。

(4) 確かに、捜索差押えに立ち会った捜査員ら及び県警本部法医理化学室で本件掛布団を検分した鑑識課員らは、いずれも掛布団に血痕の疑いがある斑痕が存在していた旨供述しているが、その具体的な数及び付着の態様については必ずしも明確に述べているものではないし、供述者によって、あるいは同一の供述者であっても供述の機会によって、多少形容の仕方に違いが認められる。しかし、右警察職員らは、観察にそれほど時間をかけたわけでもなく、あくまでも掛布団を単に概観したのみであって、鑑定人のような立場で斑痕の数を意識しながら観察を試みたわけではないと思われるから、その観察の結果に関する古い記憶を供述するに際し、斑痕が八十数個に上るとの趣旨を述べていなかったとしても、特に不合理なものではないといわなければならない。また、右警察職員らは、八十数個という具体的な数こそ示してはいないが、斑痕の数がかなり多数に上ることは、ほぼそろって供述しているのであるから、三木鑑定書との間に顕著な差があるということはできない。

なお、平塚の前記昭和五一年五月二四日の証言を子細に見ると、「斑痕の数は、一〇個以下のような感じがする。大きさは、小豆くらいあるいは米粒くらいのもので大して大きいものではなかった。」というのであり、三木鑑定書にいう八十数個の血痕の存在と数の上で大きく異なるかのような供述をしている。しかし、平塚の右供述によれば、同人も他の警察職員同様、襟当部分について、綿密に観察したのではなく、概観したに過ぎないというのであり、また右供述の中の「一〇個以下」というのも、鑑定から二〇年以上経過した後の証人尋問において、弁護人から斑痕の数を追及されてやむなく答えたものであって、数自体、正確な記憶に基づくものとは言い難いといわなければならない。しかも、三木の供述によれば、「掛布団を受け取って最初に襟当を見たとき、血痕の数は意外に少ないという印象であったが、その後、光を当てて観察すると、当初気付かなかった斑痕が多数見付かった。」というのであり、また、前記警察職員らの証言を総合すれば、斑痕は、比較的明瞭なもののほかに、「こすれたような」、「もやもやした」、「薄ばんだ」と表現しうるものが多数あったと認められるのであるから、平塚の記憶していた斑痕の数に関する印象が三木鑑定の結果と特に矛盾するとはいえない。

(5) よって、原告らの右主張は採用することができない。

(四) 襟当の写真に血痕が写っているか

原告らは、請求原因3(五)(4)アのとおり、「本件掛布団押収時に撮影されたとされている捜索差押調書添付の襟当の写真には斑痕が一つしか写っておらず、三木鑑定書の肉眼検査の結果として襟当に多数の斑痕が認められたという記載と矛盾している。」旨主張する。

(1) 確かに、乙第八号証の一四(佐藤三郎作成の昭和三〇年一二月八日付捜索差押調書)添付の写真三枚のうち、三枚目の本掛布団の襟当を撮影した写真(以下「襟当の写真」ということがある。)には、一個の斑点のみが丸印で囲まれ、矢印で「血痕」と朱書されていることが認められる。

(2) 右捜索差押時における掛布団に付着していたとされる斑痕及びそれを撮影した写真に関し、捜索差押えを行った捜査員らは、前記(三)認定のほか、それぞれ次のように供述している。

ア 佐藤三郎は、確定第一審第二三回公判(昭和三二年九月七日)において、「(えり掛に何か所か血痕が付着していた。)菅原警部補に写真を撮らせた。写真ではわからないような血痕があったことは事実である。この写真は一番大きい血痕に焦点を合わせてとったものと思う。写真の朱書部分は自分が書いた。」旨供述し(<証拠>)、第一次再審請求事件抗告審における証人尋問(昭和四〇年一一月二五日)においても、右と同趣旨の事柄及び血痕の数又はその分布などについて触れたうえ、「(菅原警部補が撮影した写真は、)四、五枚ございましたが、私個人でこの三枚以外は必要ないと判断して付けませんでした。」と供述し(<証拠>)、本件訴訟においても同様の供述をしている。

イ 菅原五夫は、第一次再審請求事件抗告審における証人尋問(昭和四〇年九月二三日及び同年一一月二五日)において、「佐藤巡査部長に頼まれて、鑑識課のローライコードカメラで四コマ位撮った。(捜索差押調書添付の写真は、)そのうちの三枚である。現像焼付けは、自分が古川警察署で行った。」「(写真は、)初めから点を写そうとは思っていませんでした。……一般的に言いますと黒い部分は写真には出にくいものでして、ここに一つあってあとはこの付近になかったとは言えないものです。この部分の黒いところがたまたま入ったのではないかと思います。」と供述し、本件訴訟においても同趣旨の供述をしている。

ウ 以上のように、捜索差押えに立ち会った捜査員らは、襟当の写真が本件掛布団の捜索差押えに際して撮影されたものであることを供述するほか、これに多数の血痕様斑痕が写っていないことについて、一応納得しうる説明をしているということができる。

(3) しかも、捜索差押調書の襟当の写真を詳細に検討すると、丸で囲んだ一個の斑痕を含め、三木鑑定書において指摘されている血痕の位置とほぼ一致する位置に斑痕が数か所写っていることが認められる(再審無罪判決も捜索差押えの際における襟当の写真の斑痕と三木鑑定書が指摘する血痕の付着状況とが概略一致していることを認めている。)のであり、また、その写真の解像度からすると、前記警察職員らが供述するような微細な斑痕が写らなかったとしても特に不自然ではないことが認められる。

なお、甲第一三号証五七四丁以下の石原鑑定書(第二次再審請求事件において、弁護人からの依頼により行われたもの)は、本件襟当の複製(三木鑑定書が指摘する個所に血痕を付着させたもの)を、襟当の写真が撮影されたと同一の条件の下で撮影したところ、多数の血痕が写ったことを述べているが、右複製が実物とどの程度類似しているのか明確とはいえないし、襟当の写真が撮影された際の諸条件(使用カメラ、フィルム、撮影時の絞り、シャッタースピード等)も証拠上必ずしも明確とはいい難いのであるから、右鑑定結果を重視することはできないうえ、右のとおり、襟当の写真にも、斑痕が一か所だけではなく、数か所以上写っていると認められるのであるから、石原鑑定書の結果は右の認定の妨げとなるものではないといわなければならない。

(4) 以上のとおりであるから、捜索差押調書の襟当の写真は、三木鑑定書の襟当血痕の数に関する記述と矛盾するものとはいい難く、本件掛布団の捜索差押えの時点では三木鑑定書が指摘すると同一の斑痕は存在しなかったとする原告らの主張の根拠となりうるものではない。

(五) 写真ネガの紛失について

原告らは、請求原因3(五)(4)イのとおり、「第一次再審請求事件抗告審以来、前記捜索差押調書の写真のネガの提出が求められているのに、警察職員は、『松山事件関係の他の写真のネガは現存するが、右写真のネガだけは紛失したらしく見当らない。』といって提出しないという不自然な態度をとり続けてきたのであるから、右写真が掛布団押収時に撮影されたものであるか疑わしく、右写真に写る一つの血痕様斑痕についても、押収当時の掛布団襟当には存在しなかったのではないかという疑いが強い。」旨主張する。

(1) 前記のとおり、乙第八号証の一四(捜索差押調書)添付の掛布団襟当の写真には血痕様の斑痕が写っているのであるが、確定審の一件記録によれば、確定審では、同写真が掛布団を押収したときに撮影されたことについて主な争点となることなく審理が進められ(弁護士は、上告審の弁論要旨<証拠>の中で、捜索差押調書の写真のネガに捜査官憲が密かに工作したものであると疑われる旨主張しているが、それまでの間、具体的にネガの問題を取り上げた形跡はない。)、確定判決は、掛布団襟当に押収当時から血痕が付着していたと認め、これをもって原告一夫を有罪とする「決定的な証拠」としたのである。

ところで、<証拠>によれば、第一次再審請求事件の抗告審において、右写真が真実捜索差押えの際に撮影されたものであるかどうかにつき具体的に問題とされ、弁護人から、昭和四〇年六月八日付で、右写真の原板(ネガ)の提出を求める申立てがあり(なお、<証拠>によれば、第一次再審請求事件の第一審における昭和三九年二月一五日付意見要旨の中で、弁護人は、「(右)ネガにつき検討を試みようとしたが、捜査当局からのネガの借用が不可能とわかって」と記述しており、この段階で弁護人と捜査当局との間で、ネガをめぐるやり取りがあったことが窺える。)、これを受けて仙台高等裁判所第一刑事部裁判長から仙台高等検察庁、宮城県警察本部及び古川警察署に宛てて、「写真原板保管の有無についての照会」がなされた。これに対し、仙台高等検察庁及び古川警察署は、いずれも保管していない旨回答した。また宮城県警察本部は、昭和四〇年七月二〇日付で「写真原板は、事件ごとに一括して当本部鑑識課において保管しているのであるが、調査した結果、該当の写真原板を発見するに至らない。本件写真撮影者である警部補菅原五夫について調査したところ、同人は従来の方法によって保管しているものと記憶しているとのことであった。よって、当本部に保管中に写真原板について再度調査したが、該当の原板を発見するに至らない。」と回答し<証拠>、さらに同年九月二〇日付で「(再度調査したが、)発見するに至らないので、該写真原板は、正規に保管される以前に紛失したものと思われる。」と回答した(<証拠>)。これらの回答の基礎となったのは、八島四夫作成の「写真原板保管の有無について報告」と題する書面及び電話聴取書(<証拠>、再審開始決定に対する抗告審において、検察官側から証拠調請求があったもの)である。

(2) この点において、右写真を撮影した菅原五夫は、第一次再審請求事件抗告審における証人尋問(昭和四〇年九月二三日及び同年一一月二五日)において、この写真のネガの保管については、記憶がはっきりしないとしたうえ、一般的にネガはネガ袋に入れて鑑識課の箱に年代別にして保管しておくが、本件では鑑識課のネガ袋に入れたことはない旨供述し、その理由として、「一般的にはフィルムを鑑識課の写真係に渡してそこで現像し、ベタ焼きをして事件名とか年月日を記入して箱に入れて保管するはずですが、本件の場合は現像焼付を私がして鑑識課にさせなかったわけです。それでもネガも佐藤部長に渡したのか、その他の書類と一緒になってしまったのか、それで鑑識課の箱に入っていないと思います。」と説明し、結論として「昭和三五年に転勤命令を受けた際にネガ袋に入れないで事務机に入れて置いたのを他の物と一括整理処分したのではないかと思います。」と供述している。また、同人は、本件訴訟においても同趣旨の証言を繰り返している。

(3) <証拠>によれば、右再審請求事件において、検察官から昭和五一年四月二一日付で確定審では未提出であった平塚掛布団鑑定書が提出されたが、同鑑定書中に本件掛布団を撮影した写真(県警本部屋上で撮影した写真)があったこと、同時にそのネガについても検察官から提出されたこと、県警本部鑑識課の写真係りでは、通常捜査関係の写真のネガは、封筒に入れて、整理した日付順にロッカーにしまっておくとされていたこと、右平塚鑑定書中の添付写真のネガも同様にして整理しており、松山事件から二〇年以上経過した昭和五一年ころでも、容易にこれを引き出すことができたことが認められる。

(4) 他方、証人石垣秀男は、菅原五夫が撮影した写真のネガについては、菅原が当時階の異なる離れた別の部屋で執務していたため、写真係のロッカーに保管せずに同人が別に保管することがあり、前記捜索差押調書添付の写真のネガも同様に菅原が保管していた可能性が高いとして、前記菅原の供述に沿う供述をしている。

(5) 以上認定したところによれば、前記襟当の写真のネガは、結局これを発見することができず、同じ松山事件関係の写真である県警本部屋上で撮影された本件掛布団の写真等のネガと取扱いが異なるのであるが、いかに大事件であっても、写真のネガは、現像焼付けが行われ、写真が正式に調書に添付される等目的を達したときには、後日写真から独立した証拠価値を有するに至ることを予測することは困難であること、系統だった保管方法が講じられずに担当者が個人で保管していたとしても特に問題とされたという例は聞き及ばず、この写真のネガも菅原が個人的に保管していた可能性があること、そして、この写真のネガが問題とされたのは、第一次再審請求事件が審理中の昭和四〇年ころであり、それまでのほぼ一〇年間は、そのネガの重要性が関係警察職員に喚起されることは特になかったことが認められ、これらの事実からすれば、この写真のネガが紛失され見当らないことが特に不自然ということはできず、また、そのことから直ちに捜索差押調書添付の写真の真正な成立が認められないということはできないし、まして、右ネガが紛失されていることをもって、写真に写る血痕様斑痕が警察職員によって偽造されたことを推認する根拠とすることもできない。

(六) 掛布団の移動保管に関する疑惑について

原告らは、請求原因3(五)(2)アのとおり、「本件掛布団は、三木助教授が昭和三〇年一二月九日にその鑑定を嘱託され、同日これを受領した後鑑定書作成に至るまで、三木の研究室に保管されていたはずであるのに、右掛布団について、平塚静夫に対し同じ鑑定事項の鑑定嘱託があり、同月一二日から二二日ころ、本件掛布団の移動、保管に関して関係者は合理的な説明をすることができず、掛布団に対する何らかの工作を窺わせる。」旨主張する。

(1) 本件掛布団に関し、三木鑑定の外に、鑑定事項がまったく同一である平塚掛布団鑑定が行われたことについては、前記(一)(6)認定のとおりである。

また、前記(一)(2)、(3)認定によれば、三木助教授は、県警本部鑑識課菅原五夫から本件掛布団を受領し、直ちに鑑定作業に着手したが、<証拠>によれば、同助教授は、昭和三〇年一二月九日に掛布団を受領した後、鑑定を終了する(終了は昭和三二年三月二三日)まで、掛布団を東北大学医学部の自らの研究室の戸棚に保管しており、その間、警察等に持ち出したことはないとの記憶である旨供述し、本件訴訟においても、同趣旨の証言をしている。

他方、前記(一)(6)認定のとおり、平塚掛布団鑑定書には、同人が昭和三〇年一二月二二日及び二三日の両日に鑑定を行った場所として、宮城県警察本部鑑識課と記載されており、平塚自身、第二次再審請求事件差戻審における昭和五一年五月二四日の証人尋問<証拠>において、掛布団の鑑定を県警本部で行い、その後掛布団を東北大学医学部に送ったと思う旨証言し、本件訴訟でも、同人が当時勤務していた県警本部鑑識課法医理化学室で鑑定作業をした旨証言している(もっとも、その証言の全趣旨からは、掛布団をめぐる事実関係に関する同人の記憶は、非常に曖昧であることが窺われ、それが平塚掛布団鑑定の際の記憶を供述したものであるかについては些か疑問がある。)。すると、本件掛布団は、三木の研究室からいったん県警本部鑑識課に持ち出され、再び三木の研究室に戻されたと推測しうるが、これを誰が持ち出し、また戻したのかについては、関係者の誰も記憶がなく、また、平塚を除く当時の鑑識課員達は、平塚が本件掛布団を鑑識課で鑑定していたことは記憶していないと証言している。

被告宮城県は、右の証拠上の矛盾に関し、平塚掛布団鑑定の行われた場所については、鑑識課ではなく東北大学医学部であり、掛布団は同大学から持ち出されていない可能性があると主張し、その根拠として後述のように平塚が同大学法医学教室の研究生であったこと、血痕鑑定のための設備等は鑑識課よりも同大学のほうが優れていたこと等を主張するが、鑑定書の記載を疑うほどの根拠があるとまではいえない。

(2) このように、確定審には提出されなかったが捜査機関にはその存在が判明していた平塚掛布団鑑定書の存在及び同鑑定書の記載にある同鑑定が行われた日時場所等によれば、本件掛布団の移動、保管に関して疑問が生じてくるので、更に三木鑑定に加えて平塚鑑定が二重に行われた経緯について関係証拠を検討する。

ア まず、三木鑑定に加えて平塚鑑定が二重に行われた経緯について、乙第三九号証(平塚掛布団鑑定書の原案に、平塚作成に係る「伺案鑑定結果の回答について」と題する昭和三一年一月五日付決裁文書が最初に綴られているもの)の一枚目(伺案)には、朱ペンで「この鑑定書は東北大学医学部法医学教室三木助教授の依頼により作成されたものである。」という書込み記載がある(証人平塚静夫は、この書込み部分も含め、右伺案が同人の筆跡によるものであることは間違いない旨述べる。)。この点について、<証拠>によれば、当時平塚は、県警本部鑑識課に勤務するかたわら、三木助教授のいる東北大学医学部法医学教室に研究生として出入りしており、三木助教授ら法医学教室の構成員と面識があったことが認められ、また平塚は、「三木助教授から鑑識課のほうで掛布団の裏に血液がついているかどうかを見てくれないかといわれ、電話で受けております。」とまで証言し、右伺案の書込みに沿う証言をしている。

ところが、平塚は、第二次再審請求差戻審の昭和五一年五月二四日の証人尋問(<証拠>)において、「掛布団の表と裏とを肉眼で見た。襟当には、複数の血痕らしいものが付いていたので、これが血痕であるとすると、自分では血液型等の検査はできないと判断した。掛布団の表に特に斑痕らしいものはなかったが、裏には斑痕があった。そこで、掛布団の裏面について、化学的検査をしたが、いずれの斑痕についても反応は陰性であった。襟当部分については、大学の先生に検査をお願いした方がよいと考えて大学に持って行ってもらった。」旨証言しており、むしろ、県警本部鑑識課の方で先に鑑定作業に着手したが、襟当部分については県警の鑑識課では鑑定不可能として、警察から東北大学医学部に掛布団を回付したかのような趣旨の証言をし、これによれば、平塚掛布団鑑定の行われた日がその鑑定書記載の日(一二月二二、二三日)と異なるのではないかという疑いが生じる。

しかし、平塚は、前記昭和五一年五月二四日の証人尋問の際、平塚掛布団鑑定書及び前記伺案を前にして、それらは筆跡からして自分の作成したものに違いないが、それらを作成したこと自体については忘れていたような趣旨を述べており、本件掛布団の取扱いに関する同人の記憶は著しく曖昧なものと認められること、前記(一)(2)認定のとおり、三木への本件掛布団の鑑定嘱託は、昭和三〇年一二月九日に行われ、本件掛布団は三木に引き渡されていることからすると、前記「(本件掛布団の鑑定着手後に、襟当の血痕鑑定を)大学にお願いすることとした。」旨の供述は、前記(三)(2)認定のとおり本件掛布団が昭和三〇年一二月八日に県警本部に搬入されたときにこれを平塚、富谷らが検分した際のことと、平塚掛布団鑑定を行った際のこととを混同しての供述ではないかと思われ、右供述から直ちに平塚掛布団鑑定が三木への鑑定嘱託に先立ち行われたと認めることはできない。

もっとも、前記「(掛布団裏側の鑑定を、)三木助教授から電話で依頼された。」旨の供述については、それ以前の証言の機会に同趣旨の供述がなされていないことからすると、それが記憶に基づく供述であると認めることもできない。

一方、三木は、第二次再審請求差戻審の昭和五四年一月二〇日の証人尋問(<証拠>)において、本件掛布団の鑑定を一部たりとも他人に任せたという記憶はなく、仮に他の者を下請けとして依頼したときは、その旨を鑑定書に記載するはずである旨証言し、本件訴訟においても同様の証言をしている。しかし、平塚掛布団鑑定は、三木鑑定の一部としてではなく、これと別に行われており、三木鑑定書には、後述のように、襟当部分のほか掛布団本体(その裏側を含む。)についての鑑定結果も記載されているのであるから、三木は掛布団本体についての鑑定も自ら実施したものと考えられ、したがって、平塚に掛布団裏側の鑑定を担当させた旨の記載が三木鑑定書にないことは当然であって、不自然とは言えない。

けれども、平塚掛布団鑑定との時間的な前後関係は明らかでないものの、三木は自ら襟当のほか掛布団本体についても鑑定を行っていることからすると、法医学の専門家である三木が、平塚(<証拠>によれば、同人は、県警本部鑑識課員であったが、その専門は人体内に含まれる毒物の分析であって、血液の検査に関しては、一般の鑑識課員以上の知識経験を有していたものではなかったと認められる。)に対し別に掛布団裏側の鑑定を依頼するということは、通常考えにくいことであり、前記伺案の記載は些か理解しにくいといわざるをえない。(この点、被告宮城県は、三木が検察官から鑑定結果をせかされたために、臨時の措置として法医学教室の研究生でもあった平塚に三木鑑定の作業の一部を分担させ、後に自らも右分担部分の鑑定作業を行ったのではないかと推論するが、平塚掛布団鑑定のための作業はさほど時間がかかるものではなかったと思われること、同鑑定の対象は、後述のように「掛布団裏側」に限定されていると認められ、検察官からせかされたために同鑑定が行われたのであれば、鑑定対象からことさら掛布団の「表側」を除外した理由は考えにくいことからすると、右推論はあまり根拠がないというべきである。むしろ、後述(二)(3)のように、三木は、自己の行った鑑定の結果、掛布団本体部分に血痕の付着が認められなかったため、そのことに疑問を抱いたことが認められるので、念のため、平塚にも掛布団本体について鑑定させてみたという可能性があるが、これも推測の域を出ない。)

イ 次に、前記(一)(6)認定のとおり、鑑定処分許可状記載の鑑定事項は、三木鑑定と平塚掛布団鑑定とでまったく同一である。ところが、鑑定結果については、三木鑑定では、襟当部分も含めて本件掛布団全体について結論が示されているのに、平塚掛布団鑑定書及び前記伺案では、鑑定事項として「1掛布団の裏面に人血液が付着しているか否か、2人血液が付着しているとすればその血液型、3その他参考事項」と、また鑑定結果として「鑑定資料の掛布団の裏には、人血液が付着していないものと認める。」と記述するにとどまるので、平塚掛布団鑑定の対象が掛布団の裏側に限られたものであるか否か問題となる。

平塚掛布団鑑定書の記述を詳しく見ると、「鑑定経過」として、「鑑定資料の掛布団の表は写真1に示すように花模様になっている。またこの掛布団の裏は赤紫色で、諸処に黒褐色の汚斑が認められる。これら汚斑の各一部について次の検査を行った。」としており、掛布団全体について、一応肉眼検査を行い、そのうち、汚斑が認められた裏面についてさらにベンチジン検査及びルミノール検査を行ったもののようであり、また、平塚自身、第二次再審請求事件における昭和五一年五月二四日の証人尋問において、この鑑定が掛布団の裏側に限定されていたものではない旨を証言しているのであるから(<証拠>)、平塚掛布団鑑定の対象が掛布団の裏面に限定されていたとはいえないかのようである。

しかし、

① 平塚掛布団鑑定が前記伺案に記載されたとおり三木の依頼により行われたものとすると、古川警察署で作成されたことの明らかな右鑑定に係る鑑定処分許可請求書(<証拠>)及び鑑定嘱託書(<証拠>)は、平塚ないし同人の鑑識課の同僚から古川署に対してなされた依頼に基づき作成されたものと考えられ、そうだとすると、平塚が行おうとしていた鑑定内容が古川署に正確に連絡されなかったなどのために、平塚が行おうとしていた鑑定事項と異なる事項が誤って右鑑定処分許可請求書等に記載されたという可能性があり、実際、右鑑定処分許可請求書等には、鑑定物件の表示として「被疑者が着用していた掛布団の一枚」の外に「敷布一枚」がいったん記載されてから抹消されていることが認められ、このことからすると、古川署員が右鑑定処分許可請求書等を作成した際、三木鑑定に係る鑑定処分許可請求書等の控えを見て作成しようとしたのではないかという疑いがあること、

② 仮に平塚掛布団鑑定の鑑定事項が同鑑定処分許可請求書等に記載されたとおりであるとすると、平塚が同鑑定書に記載した鑑定事項は不完全な記載ということになるが、慎重に作成されるべき鑑定書にそのような誤りの生じることは通常考えにくいこと、

③ 掛布団の表側も鑑定対象になっていたのであれば、鑑定書の「掛布団の表は花模様」などという記載は特に必要なく、掛布団の表に血痕様の斑痕がなかったのであれば、その旨記載すれば足りるし、またそうすべきであるから、右「花模様」という記載は、鑑定物件の同一性を明らかにするための記載に過ぎないと見ることができること

以上のことからすると、平塚掛布団鑑定の鑑定対象は「掛布団の裏面」のみであったというべきであり、前記平塚証言も、明確な記憶によるものではないというべきである。

しかしながら、何故掛布団の裏側に限って平塚の鑑定が行われたのかについては明らかでない。

ウ 平塚掛布団鑑定が行われた時期についての直接的な証拠として、同鑑定書の記述のほか、<証拠>(昭和三〇年一二月二二日付古川警察署長からの宮城県警察本部鑑識課長宛て平塚鑑定の嘱託書)が存するが、これの嘱託の日付欄の「十二月二十二日」の「二十二日」がその他の欄とは異なるペン字で記載されており、また受付スタンプ印の「昭和31年12月21日」の印影を「30年12月24日」とペン書きで改ざんしたような形跡がある。しかし、これらの事実をもって、平塚鑑定が依頼され実施された日が、同鑑定書の記載と異なるものであると推認できるとはいえない。

エ 平塚鑑定書に添付された本件襟当付掛布団を写した写真と同一機会に撮影されたと認められる写真一二枚及びそのネガフィルム(<証拠>)は、<証拠>によれば、同人が県警本部の屋上で撮影したものであることが認められるが、そのネガの入っていたネガ袋(<証拠>)の日付欄には「30」年「12」月「13」日とペン書きで所定の場所に記入され、さらに「13」の数字とその上の「月」という不動文字との間に挿入するような形で「22」という数字が鉛筆で記入されていることが認められる。ところで、右「22」の数字の下に同じく鉛筆で記入された一本の横線は、「13」の数字の上部に一部かかっていることが認められるが、この横線が「13」を抹消する趣旨で記入されたものかを明確にする直接的な証拠は今日では存しない。

この点については、石垣秀男は、本件訴訟において、ネガ袋には通常写真のネガを整理してロッカーに仕舞う日を記載していたので、この場合もネガを整理した日であると思う旨証言しているが、同人は第二次再審請求事件差戻審においては、それが写真撮影の日とネガを整理した日のいずれかであるかは記憶がない旨証言(<証拠>)しており、本件訴訟における前記証言が記憶に基づく証言であるか疑わしいといわなければならない。しかし、一巻のフィルムが一日で撮影されるとは限らないこと、また、撮影者とフィルムを現像整理する者とが同一人であるとは限らず、フィルムを現像整理する者が撮影日を常に把握しているとは限らないことからすると、ネガ袋の日付はロッカーに仕舞う日を記載する取扱いであったという供述にも相応の根拠があるというべきである。

オ 右写真が撮影された日時について、証人石垣秀男は、昭和三〇年一二月のある日の午後である旨証言している(同証人は、第二次再審請求事件差戻審の昭和五一年六月七日付証人尋問において、午前中に撮影したものである旨証言している(<証拠>)が、本件訴訟の証人尋問において、先の証言が誤りであるとしている。)。さらに証人富谷定儀は、右写真撮影は、県警本部に本件掛布団が搬入された昭和三〇年一二月八日の翌日(九日)に平塚から指示されて、富谷が石垣に依頼したと証言している。

ところで右写真によると、撮影に当たり、被写体である掛布団は、敷物を使用しないで建物の屋上のコンクリート面に直接置かれており、かつ屋上を太陽光線が照していることが窺われる。また、太陽光線による影等に照すと、撮影の時刻は、午後の比較的早い時刻であると推認することができる(<証拠>によれば、乙第三七号証の番号8及び9の写真に写る県警本部庁舎中庭東側壁面部にできた同建物の正面屋上北側手すり部の日影の位置から、右写真は、昭和三〇年一二月二二日よりも、同月九日に近い日に撮影されたものであり、仮に同月九日に撮影されたものであれば、その撮影時刻は、午後一時四二分から四四分の間であるという鑑定結果が出ている。)。

そこで、右証言及び前記ネガ袋の記載等により、写真撮影が行われた可能性があると思われる昭和三〇年一二月の九日、一三日または二二日の気象状況についてみると、<証拠>(仙台管区気象台長作成の昭和五八年一一月一一日付気象資料回答書)によれば、一三日及び二二日の両日は、いずれも天候の面で、右写真の状況と特に矛盾は生じない(但し、二二日は、午前八時及び九時の天候は雨で、八時から一〇時まで0.0ミリメートルの雨が記録されている。)。これに対し、九日については、晴れ時々雪の天気で、午前中には降水量を伴う雪が記録されている。しかし、右回答書により、九日の天候を更に子細に検討すると、次のとおりである。

時刻

天気

全雲量

時間

日照時間

降水量(mm)

六時

薄曇

一〇

六~七時

なし

0.0

七時

一〇

七~八時

なし

0.2

八時

一〇

八~九時

なし

0.6

九時

九~一〇時

0.9

なし

一〇時

一〇~一一時

0.8

0.0

一一時

一一~一二時

0.8

0.0

一二時

一二~一三時

1.0

0.0

一三時

一三~一四時

1.0

0.0

一四時

快晴

一四~一五時

1.0

なし

(以下略)

(以下略)

これによると、午前九時までに0.8ミリメートルの降水量があり、午後一時に天気が雪、午後〇時から一時までの降水量が0.0ミリメートル(0.1ミリメートル未満の降水量があったことを意味する。)、午後一時から午後二時までの降水量が0.0ミリメートルと記載されているが、その前後の天気が、午後〇時は晴、午後二時は快晴となっており、それらの時刻の雲量及び一二時以後の各一時間における1.0という日照時間から考え、かつ晴れていても雪が少しでも降っている場合には天気を雪とする気象学上の約束事があること(<証拠>)に鑑みると、午後一時の「雪」という天気も、日は出ていながら小雪が舞うような気象状態であったと推測することが可能である。

そして、午前九時前に認められる降水量もさほど多いものではなく、その後の天候次第ではコンクリート面が乾燥することもあり得ることも併せ考えると、九日の午後の比較的早いある時刻(特に午後一時四、五〇分ころ)における県警本部屋上のコンクリート面の状態が、その上に直接掛布団を置いて撮影することに支障のないものであったと推測することが可能である。

以上に加えて、警察外部へ鑑定を嘱託する場合に、鑑定人に鑑定資料を交付するに先立ち、当該鑑定資料を写真撮影することは、証拠保全の観点から有意義なことであるから、右写真撮影が一二月九日に三木鑑定人に本件掛布団を交付する前に行われたとしても矛盾はなく、むしろ、<証拠>によれば、この写真撮影は一二月九日に行われた蓋然性が高いといわなければならない。

カ 右平塚掛布団鑑定書(<証拠>)添付の掛布団の写真及び同写真と同一機会に撮影された前記一二枚の写真(<証拠>)によると、同写真の撮影時には、襟当につき切取りは全くなかったと認められる。ところで、前記三木鑑定書(<証拠>)には、本件掛布団の襟当について、斑痕が血液によるものであるか否かの検査のため、数か所の部分的な切取りが行われたことが記載され、また右切取りは昭和三〇年一二月一二日に行われたという趣旨にも読める部分(切取りを伴う血痕の陳旧度検査の結果について、「この血痕は付着後検査時(昭和三十年十二月十二日)迄、十数日以上、一ヶ年以内と思われる。」という記載部分。)が存する。しかし、三木鑑定書をさらに見ると、同鑑定は、八十数個に及ぶ血痕様の斑痕について詳細な肉眼検査を経たうえ、斑痕が血液か否かについてグアヤック検査法、化学発光検査法及びヘモクロモーゲン検査法を用いての検査、人血か否かについて、まず検査資料よりの浸出をしたうえで抗人グロビン沈降素による検査法による検査、最後に血液型の検査の順で行われたこと、鑑定資料である襟当の切取りは、化学発光検査法による検査以降の検査において行われたことが認められ、三木は本件訴訟において、「肉眼検査だけでも相当時間がかかったと思われるので、右検査過程からすると、切取りを行ったのは、一二月一二日では早過ぎると思われる。したがって『検査時』というのは、肉眼検査を行った日を記載したものと思う。」旨供述しており、確かに肉眼検査の結果に関する三木鑑定書の記載がかなり詳細かつ膨大であることからすると、右供述にも相当の根拠があるというべきである。けれども、三木は、掛布団を受領した後直ちに鑑定に着手したというのであるから、鑑定のための準備期間を考慮に入れても一二月一二日を肉眼検査の着手日とするのは時期的に遅すぎる印象もあり、この日に切取りが行われた可能性は否定できないというべきである。

しかしながら、右日付がいずれであるにしても、前記のとおり、平塚掛布団鑑定書添付の本件掛布団の写真の撮影は一二月九日に行われた蓋然性が高いのであるから、この写真に写る襟当に切取りが認められないことは、何ら不思議ではないこととなる。

キ ところで、平塚掛布団鑑定書添付の本件掛布団の写真が一二月九日に撮影されたとすると、一二月二二、二三日に行われたという同鑑定書になぜ右写真が添付されているかが問題となる。しかし、平塚が鑑定を行った際に本件掛布団の写真のネガを県警本部に保管されていたなら、あらためて本件掛布団の写真を撮影せず、右ネガを焼増しして鑑定書添付写真に利用することにしたとしても不自然ではないし、さらに、「ネガ袋の日付は、通常、ネガをロッカーに保管する日を記入していた。」という前記石垣の証言を前提とすると、本件ネガ袋の12月13日という日付は、フィルムの現像を終えて最初にネガをロッカーに仕舞った日であり、その上に鉛筆で記入された22日という日付は、平塚掛布団鑑定書に添付するために写真を焼増ししてネガを再度ロッカーに仕舞った日であると推測することが可能であり、これはあくまで一つの推論にとどまるものではあるが、相互に矛盾なく説明できることとなる。

(3) 以上のとおり、平塚掛布団鑑定が行われた経緯は明らかでなく、特に、三木鑑定に付せられながら、その鑑定作業が行われていた最中と思われる時期に、平塚による鑑定に付せられた理由については、今日では全く明らかにすることはできず、また、平塚鑑定のために本件掛布団は東北大学医学部法医学教室から県警鑑識課に持ち出された(また再度東北大学医学部へ持ち込まれた)と推認しうるが、いつ、誰がそれを行ったのかも明らかではない。

しかし、右のような不明点については、平塚掛布団鑑定の存在及び内容に疑問が投げかけられたのが、その作成から二〇年以上経過した後のことであって、関係者が事実関係を忘れたり、記憶が曖昧になってしまったために合理的な説明できないとしても不自然とはいえないし、また平塚着衣鑑定書の存在が明らかにならないまま長年月経過したことについても、同鑑定の結果は「掛布団の裏側に人血液は付着していない。」というものであり、後述のようにその意味は三木鑑定の結果以上の意味を持つものではないから、検察官がこれを証拠として重要とは認めず、積極的に公判廷に提出しなかったとしても不合理とはいえないというべきである。

また、右不明点に関連して問題とされた平塚掛布団鑑定に係る鑑定処分許可状記載の鑑定事項、同鑑定書添付写真の撮影日等についても、一応の説明が可能であり、特に不自然な点があるとはいえない。

したがって、右の不明な点を捉えて、捜査員が掛布団に対して何らかの工作を行ったと推認しうる根拠とすることはできず、原告らの右主張は採用することができない。

(七) 平塚掛布団鑑定の結果について

原告らは、請求原因3(五)(2)イのとおり、「平塚掛布団鑑定は、三木鑑定についての鑑定嘱託事項と同じ事項について鑑定嘱託がなされているところ、掛布団には血痕付着が認められないという鑑定結果が出ており、この鑑定当時、鑑定書添付写真から明らかなように、襟当は掛布団から取り外されていなかったのであるから、右鑑定結果は、襟当についても血痕付着がなかったことを意味する。」旨主張する。

(1) 平塚掛布団鑑定の鑑定事項が掛布団裏側を対象とするものであると認められること、その鑑定により掛布団の裏には人血液が付着していないとの結果が出ていることについては前記(六)認定のとおりである。

平塚掛布団鑑定当時に本件掛布団から襟当が取り外されていたかどうかについて、同鑑定書添付写真が参考にならないことは、前記のように同鑑定書添付写真が昭和三〇年一二月九日に撮影された蓋然性が高いと認められることから明らかであるが、しかし、平塚掛布団鑑定以前に襟当が掛布団本体から取り外されたという証拠もないのであるから、これが同鑑定の当時に掛布団本体に付いていた可能性は否定できない。

そこで、平塚掛布団鑑定にいう「掛布団の裏面」というのが、襟当を含む趣旨であるかどうかが問題となる。

(2) 前記の平塚掛布団鑑定書中の「鑑定経過」によれば、「…この掛布団の裏は赤紫色で、諸処に黒褐色の汚斑が認められる。これら汚斑の各一部について次の検査を行った。」というのであり、「赤紫色」というのは本件掛布団の本体部分の裏側の色調であり、襟当部分は白い布であることは三木鑑定書からも明らかであるから、平塚は「掛布団裏側」という言葉を、襟当部分を除いた掛布団本体の裏側という意味で用いていること、血痕検査を行ったのも掛布団本体の裏側であることが窺われる。しかも、平塚は、前記(六)(2)アのとおり、昭和五一年五月二四日の証人尋問において、襟当に血痕様斑痕が存在していたこと、その斑痕が血痕であるとすると、その血液型判定は鑑識課では手に負えないと考え、大学に鑑定を依頼することにしたこと、掛布団の裏側については自分が鑑定したことを述べている。右供述が、一二月八日に初めて本件掛布団を見たときのことと平塚掛布団鑑定を行ったときのこととを混同しているらしく、掛布団に関する同人の記憶が曖昧らしいことも前記のとおりであるが、襟当の鑑定を大学に依頼し、自分では行わなかったという趣旨においては、比較的明確に述べている(もっとも、三木鑑定は襟当のみを対象としていたわけではなく、この点においても同人の証言は些か事実と異なる。)。

(3) 以上のとおりであるから、平塚掛布団鑑定の結果は、襟当を除く掛布団本体の裏側についてのものであって、襟当の血痕付着の有無に関しては全く触れていないというべきであり、したがって三木鑑定の結果と矛盾するものではなく、原告らの右主張は採用することができない。

(八) 平塚掛布団鑑定書添付写真について

(1) 原告らは、請求原因3(五)(2)ウのとおり、三木鑑定書によれば、昭和三〇年一二月一二日、三木は襟当の血痕の陳旧検査を行い、そのために襟当の一部を切り取ったはずであるのに、平塚鑑定書の添付写真によれば襟当には切取りが認められないのであり、したがって、平塚が右鑑定を行った際には切取りがなかったと認めるのであるから、三木による右陳旧検査の日付は虚偽である可能性が高く、三木鑑定書の信用性が疑われ、右一二月一二日ころ襟当に三木鑑定書のような多数の血痕群が存したと認めることはできないと主張する。

確かに、前記(五)認定のとおり、平塚掛布団鑑定書(<証拠>)添付の掛布団の写真及び同写真と同一機会に撮影された一二枚の写真(<証拠>)には、襟当につき切取りは全く認められないのに、三木鑑定書(<証拠>)には、本件掛布団の襟当について、一二月一二日ころ、斑痕か血痕によるものであるか否かの検査のため切取りが行われたかのような記載がある。

しかし、既に(六)(2)カにおいて述べたとおり、平塚掛布団鑑定書添付の写真及び同写真と同一の機会に撮影された一二枚の写真が撮影されたのは、一二月九日の三木鑑定に付される前である蓋然性が高いと認められるのであるから、平塚掛布団鑑定書添付の写真において、襟当に切取りが認められないことが不自然であるとはいえない。

なお、平塚は、昭和五一年五月二四日の証人尋問に際して、(鑑定した際、襟当に切取りがなかったことは、)「自信をもっていえます。」と供述している。しかし、前に触れたように、右平塚の供述を全体としてみると、平塚が一二月八日に初めて本件掛布団を見た時のことと、掛布団の鑑定を行った時のことを混同して供述していたのではないかと思われるのであり、右供述も一二月八日の印象を述べているとすれば、異とするに足りない。

したがって、三木助教授による陳旧検査の日付が虚偽であると認めることはできず、また、三木鑑定書の信用性を否定することもできない。

(2) なお、原告らは、三木鑑定書には同時に鑑定した男下駄及び敷布の写真が添付されているのに、最も重要であるはずの本件掛布団の写真は添付されておらず、不自然である旨主張する。

三木鑑定書(<証拠>)によれば、同時に鑑定した男下駄及び敷布の写真は添付されているが、本件掛布団の全体写真は添付されていないことが認められる。この点について、三木敏行は、第一次再審請求事件の抗告審の証人尋問において、全体の写真を撮ったような記憶があるが、鑑定書に添付するようないい写真が撮れなかったように記憶する旨証言しており(<証拠>)、その証言の信憑性を疑うような事情は存しない。そして、鑑定の結果、血痕と判定された斑痕が多数認められた掛布団については、多数の斑痕の存在が判別できるように対象物件である掛布団に接写して部分毎に写真を撮り、それらしい斑痕が認められなかった男下駄及び敷布については、全体の写真のみを添付したことに特に不合理と思われる点はない。

よって、この点についての原告らの主張は理由がない。

(九) 掛布団の血痕を原告一夫及び家族に確認させていないことについて

原告らは、請求原因3(五)(5)のとおり、掛布団に血痕が発見されたのであれば、押収時に立ち合った家族にこれを示して確認させるべきであり、また押収後、原告一夫に示して、本人の掛布団であること及び血痕群の存在について確認を得るべきであるのに、いずれの手続も行われていない旨主張する。

(1) <証拠>によれば、確定第一審第一六回公判(昭和三二年三月二三日)において、本件掛布団とその鑑定の証拠申請が行われたことが認められるが、押収されてから公判に提出されるまで、原告一夫又はその家族の者に直接掛布団そのものを示して掛布団に付着していたとされる血痕について確認を求めることを窺わせる確実な証拠は存しない(証人菅原五夫は、本件訴訟において、本件掛布団の押収時に原告一夫の祖母きさに対し「おばあさん、ここに血のようなものが付いていますよというような言葉で話したような気がします。」と供述しているが、差押えから三〇年以上後に初めて述べられた事実であり、直ちに採用することはできない。)。

(2) しかし、仮に本件掛布団の押収に当たり家族に斑痕の存在について確認を求めなかったとしても、一般に、捜査の手続として、押収物に付着した血痕様斑痕について立ち合った者に必ず確認を求めなければならないという理由はないし、前記認定によれば、本件掛布団の捜索差押に当たっては、四名の捜査員が立ち合って斑痕の存在を確認し、写真撮影までしているのであるから、捜査員が特に家族にまで確認を求める必要性を感じなかったとしても、無理からぬことである。

(3) また、前記(三)(2)認定のとおり、本件掛布団は、押収後、県警本部へ搬送されるまで、短時間ではあるが古川署に保管されていたと考えられ、前記1(二)(4)⑥のとおり、その日の午後は原告一夫は同署において亀井警部らの取調べを受けていたと認められるのであるから、その際、原告一夫に襟当の斑痕について確認を求める機会があったと考えられるが、当該斑痕が人血であることすらその後の三木鑑定により判明したことであることからすると、そのような押収物について被疑者等に確認を求めるべきであるとは言い難い。なお、原告らは、彰と勝の布団を原告一夫に見せて確認させていることと対比するが、その時には、掛布団が原告一夫の使用していたものであるか具体的に問題となっていたのであり、事情が異なる。

(4) なお、前記(二)(3)イ認定のとおり、原告一夫は、昭和三一年二月六日に検察官から捜索差押調書添付の写真(当時、掛布団の現物は、鑑定のため。東北大学にあった。)を示され、「自分が使用していた布団のように思うが、写真なので断言できない。血が付いていること等全然見たことはない。」(<証拠>)と供述していることが認められ、この供述からは、検察官が襟当の血痕について原告一夫の弁解を聞いていることが窺われるし、また、確定第一審第一回公判(昭和三一年二月七日)において、検察官は、冒頭陳述の中で、証明すべき事実として、「帰宅後家人に気付かれない様に自分の布団にもぐった事実、右掛布団に血痕の付着している事実、その血痕は血液型より判定し、被告人ならびに被告人家族のものではなく被害者の血液型と一致する事実、右血痕の古さは犯行後付着せるものと推定し得る事実」を挙げていることが認められる(<証拠>)のであるから、本件掛布団が現実に公判に提出されたのが第一回公判から一年余り経過した後であるとしても、それまで本件掛布団の証拠としての位置付けを被告人(原告一夫)、弁護側にことさら秘匿していたとはいない。

(5) 以上のとおりであるから、本件掛布団の押収に際して原告一夫ないしその家族に血痕の存在を確認させていないことが特に不合理であるということはできないし、右血痕に対する適切な反論の機会を被告人、弁護側に与えなかったということもできず、これらの点についての原告らの主張は理由がない。

(一〇) 枕、枕カバーが押収されていないことについて

原告らは、請求原因3(五)(6)のとおり、掛布団襟当に多数の血痕群が付着しており、かつそれが原告一夫の頭髪から移転し付着したものと考えられたのであれば、押収に当たった捜査員らは当然、枕、枕カバーについても血痕が付着しているものと考えたはずであり、これらを押収すべきであったのに、探した形跡もない旨主張する。

(1) 前記(二)認定の事実によれば、昭和三〇年一二月八日の捜索差押えは、原告一夫の自白では同人は犯行後髪を洗わなかったということなので、髪に付着した被害者の返り血が寝具に二次的に付着した可能性があるとして、主に寝具をその対象としていたところ、現実に押収したのは、掛布団及び敷布各一枚のみであったことが認められる。

(2) 第一次再審請求事件において、弁護人からの請求により鑑定した船尾忠孝の鑑定書(<証拠>)は、「襟当に付着の血痕の性状及び位置から考えると、頭髪に血液が付着した人が静かに寝ていたのではなく、転々反側して、かなり就寝中に移動したものと思われるので、枕があった場合、枕カバーにもかなり血痕が付着していたものと推定される。」との結果を導いている。

(3) 掛布団の捜索差押えに立ち合った佐藤三郎は、本件訴訟において、枕、枕カバーを押収していない理由として、「捜したが、なかったか、誰が使用していたか確認できなかったためである。」旨の証言をしている。しかし、同人は、確定第一審の第二三回公判期日(昭和三二年九月七日)における証人尋問(<証拠>)において、枕は捜さなかったのかという質問に対し、「記憶がない。」と答えているのであって、その後三〇年以上経過してから記憶がよみがえるということは通常ありえないと思われるから、本件訴訟における前記証言は、記憶に基づく供述ではなく、単に推測を述べたに過ぎないと思われる。

事件後三〇年以上経過した今日では、掛布団と敷布以外に二次的に血痕が付着する可能性があると思われる枕、枕カバー等の捜索が行われたか否かを明確にする証拠は存しない。しかし、一般的に証拠がすべて完全な形で常に現場に存在するとは限らないのであるから、証人佐藤三郎が証言するように、捜索したけれどもなかったという可能性や、あるいは、あったけれども、どれが原告一夫使用のものか明らかでなかったために押収しなかった可能性も否定できないところである。これに対し、捜査員らにおいて、故意に枕、枕カバー等を捜索の対象から除外したという証拠はない。したがって、枕、枕カバーを押収していないことをもって、寝具の捜索差押えに不合理な点があったということはできないといわなければならず、この点に関する原告らの主張は理由がない。

(一一) 血痕の付着状況及び付着原因について

(1) 原告らは、請求原因5(五)(1)イのとおり、「原告一夫が本件犯行に関与していたならば犯行時に着ていたはずの本件ジャンパー、ズボンには、当初から血痕の付着したことはなかったのであるから、犯行時、着衣に付着しなかった返り血が、頭髪にのみ付着したということは考えられず、したがって、頭髪のみに付着した血液が直接、又は手指を介して掛布団襟当に付着したという推論は成り立たない。」旨主張する。

しかし、前記4(三)において検討したとおり、本件ジャンパー、ズボンが松山事件のあった当夜における原告一夫の着衣ではなかった可能性も否定できないのであるから、平塚着衣鑑定において本件ジャンパー、ズボンに血痕の付着がないとの鑑定結果が出されていることをもって、返り血が事件当夜の着衣には付着していないとの結論を導き出すのは早計である。

(2) 原告らは、「原告一夫の自白によれば、犯行後二時間半くらい経過した後就床したというのであるが、それまで頭髪に付着した返り血が頭髪から襟当に二次的ないし三次的に付着するほどに乾燥せずに水分を保持し続けるものか疑問があるうえ、襟当の血痕群の付着状況は、襟当の左右両端部に多く、その表側にも付着しているというのであるから、就床中の頭髪から直接または手指を介して付着したというような態様の付着状況ではない」旨主張する。

ア 前記(一)(4)に認定のとおり、三木鑑定書(<証拠>)は、襟当の血痕の付着状況について、「何れも小さく、不規則で、金平糖状、飛沫状、あるいは感嘆符状をなすものではない。従って、動脈から噴出したり滴下したりして生じたものではないと推測され、少量の血液を擦り付けたり、微量の血液を押し当てたり、又は軽く接触して生じたと考えるのが妥当と思われる。」とし、「血痕は全面に散在するが、表面、裏面共に右側に多く、中央部では疎である。配列は不規則で、一定の秩序はなく、しかも襟当のみに血痕があり、布団のその他の部分には認められない。」という付着状況から判断して、「襟当の血痕が全体としてどのようにして生じたかを具体的に指摘することは困難であった。」としている。

イ また、確定第一審において、裁判所からの命令により襟当付掛布団を鑑定した鑑定人古畑種基の昭和三二年七月一七日付鑑定書(<証拠>)には、「(血痕が)あまりにも不規則で、しかも殆ど襟当の部分だけに付いていることから、具体的にどのような状況で付いたものか明らかにすることは極めて難しい。強いて説明すると、血液がある物体、たとえば、人の頭髪などに付き、それが二次的に触れてできたものとも考えられる。」との鑑定結果の記載がある。

ウ 三木敏行は、第一次再審請求事件の昭和四〇年一二月二日の証人尋問(<証拠>)において、(頭髪に付着した血を更にこすり付けたり、押し当てたりして二次的に付着する可能性について)「そういう可能性はあると思います。ただそれは抽象的にそういえるだけであって、具体的な問題となりますと、髪の長さ、付着の時間とかいろいろおこってまいりますから、抽象的に可能性があるということはいえると思います。」として、二次的に掛布団の襟当の血痕が付着するか否かについて、具体的な可能性については明言を避けているが、抽象的な可能性については必ずしも否定していない。なお、再審開始決定に対する抗告審において三木敏行から提出された意見書(<証拠>)には、「仮に毛髪に付着した血液が二次的に襟当に付着し、更に手指を介して三次的に付着したと考える場合、極めて適切な機序であると考えられる。」という記載がある。右の意見書中の記載は、それまで抽象的な可能性に触れるに止っていた考えを一歩進めたものということができ、その根拠につき特に説明を加えていないので、直ちにその意見書の記載を採用することはできないと思われるが、抽象的な可能性については、当然のことながら、それまでと同様に肯定していることに変りはない。

エ また古畑種基は、同様に第一次再審請求事件の昭和四〇年一二月三日の証人尋問(<証拠>)において、「どういうふうに付いたというのを無理に考えてみれば、なんか寝ている人が頭の中に血が付いていて、それで布団を被るとか、頭をかくとかなんかしたときだったら付く可能性があるんだと、ひとつの可能性を言っているだけで、こうだと申し上げているわけではないんです。」と供述したうえ、(前記イの古畑鑑定書中の「強いて」以下の意味について、)「可能性の一つを書いたんです。これは省略してよろしいんです。結局いろいろ考えてもよくわからない、確かなことはわからないと、そういう趣旨です。」と供述し、やはり具体的な可能性を述べているものではないが、抽象的な可能性は必ずしも否定していない。

オ 再審公判事件の昭和五八年九月二八日の証人尋問期日において(<証拠>)、証人木村康は、「真っ直ぐ布団を被って行儀良く寝ていた場合には、その頭髪のところが付着した極く狭い範囲だけ付着する。ところが、頭髪を左右にこすり付けた場合には、頭の付いたところの範囲には付くが、表面までは普通付かない。実際の襟当に付いていた散在の仕方は、表の方にもまんべんなく特定の偏りもなく付いているが、そういうことから考えると、どうもあの布団を被ってそれで頭をこすったという動作によってできるものではなかろうか。」と供述し、血痕の付着状況から考えて、頭髪から二次的に襟当に付着する可能性については否定的な証言をしている。

カ 以上の証拠状況及びその他の三木鑑定の結果などに基づき考えるに、確かに、本件襟当の血痕が頭髪から二次的に付着したものであるとすると、それが比較的大きなその襟当(左右径約一二六センチメートル、頭足径は掛布団の表側で約二七センチメートル、裏側で約三七センチメートル)のほぼ全体にわたって認められること、掛布団の表側にも認められることについて、明確な説明をすることは困難である。また、犯行後二時間余の後に就床したという原告一夫の自白を前提とすれば、頭髪に付着した血液が二時間余の後まで、二次的な付着が可能な状態にあったのかということも問題となるが、それを肯定しうる明確な証拠があるともいえない。

しかしながら、個々の血痕の付着の態様からすると、これは二次的付着によるものと考えられること、掛布団の襟当は、もともと頭髪などからの汚れが掛布団全体に付着するの防止するためのものであり、通常の使用方法によれば、人の頭部と接触する機会が多いものであること、就床中の人の姿勢、動き、掛布団の使用方法によっては、頭髪に付着した血液が襟当の広い範囲に、また襟当のうち掛布団の表側の部分に付着する可能性を否定しうるとはいえないことからすると、本件襟当の血痕も頭髪からの二次的付着である可能性を否定しうるとはいえない。前記木村証言も「布団を被って頭を左右にこすりつけるという動作」によっては本件襟当の血痕の付着状況を説明できないというのであって、頭髪からの二次的付着の可能性を全く否定する趣旨であるとは認められないのである。

また、原告一夫は、犯行後大沢堤で顔を洗ったと供述しているのであるから、その際、額の生え際あたりの頭髪は若干の水分を含んだと考えることもできること、後述のとおり事件当夜は最低気温一三、四度前後と推測され、その地方の一〇月中旬としては比較的暖かな晩ではあったが、雨は降らなかったとしても天候は曇りで、湿度はかなり高かったと推測しうるのであることから、犯行により頭髪に付着した血液が二時間余の後に襟当に付着することがありえないとまでいうこともできないのである。

(3) 原告らは、「仮に頭髪に付着した返り血が掛布団襟当に多数かつ広範な血痕斑として付着したのであれば、他の寝具や掛布団本体にも同様に付着しているべきとこころ、犯行時原告一夫が使用していたものとして押収された敷布からは血痕は検出されず、また掛布団の襟当以外の本体部分からも血痕は検出されていない。」旨主張する。

ア 前記認定によれば、三木鑑定書(<証拠>)では、掛布団の襟当には、多数の血痕が付着し、その中には襟当の裏側にしみとおるものもあり、襟当の周辺部にもかなり多く認められるというのに、同鑑定人は、「(掛布団本体のうち、掛布団を)被った際手等の当たる部分には念を入れ観察を試みたが、血痕様斑痕の存在は認められなかった。」としている。ただ、この点について、三木鑑定書の中には、「布団の表面は濃く彩色され、裏面は小豆色で血痕と紛らわしい色調であるので、血痕の発見が困難であろうこと、更に襟当の血痕の大きさからみて、仮に血痕が付着していたとしても、微小であろうことなどから、血痕の存在をまったく否定し去ることはできないが、血痕の存在を立証し得なかった。」(<証拠>)とし、掛布団本体について血痕が付着していた可能性を必ずしも否定はしていないのであるが、結局その存在を立証できなかったのである。

掛布団の襟当部分にのみ血痕が付着していたことの原因について、三木は、昭和四〇年一二月二日の証人尋問(<証拠>)において、「当時どうして襟当だけに付いておって、外の部分に見つからないんだろうということを不審に思いまして、更によく見たような記憶があるんですけれども、見つからなかったんです。」と供述している。

イ 前記のとおり、平塚掛布団鑑定書(<証拠>)は、掛布団の裏面に血痕が付着していないとしている。

ウ 古畑鑑定書(<証拠>)では、「主として、襟当の部分に限られ血液が付いており」とし、掛布団本体にも若干は血痕が認められたかのような記述であり、かつ添付の図面にも、襟当に隣接する掛布団本体の裏面にも血痕が認められたような図示がある。しかし、第一次再審請求事件の昭和四〇年一二月三日の証人尋問において、古畑種基は、襟当以外の掛布団本体に血痕が付着していたことについて、肉眼的検査を行ったことは明らかであるが、更に科学的検査を実施したか記憶がないとの証言をしている。したがって、古畑鑑定書添付の図面の掛布団本体にも血痕の付着があるかのような図示は、肉眼で認められた単なる斑痕をそのまま血痕として図示したのではないかとの疑問があり、古畑鑑定書添付図面のみをもって掛布団本体にも血痕が付着していたと認めることはできず、前記記述も正確なものではないというべきである。

エ 三木鑑定書によれば、掛布団とともに押収された敷布からは血痕は検出されていない。

オ 以上によれば、返り血に二次的に付着したとされる寝具類のうち、掛布団の襟当部分には多数の血痕の付着が認められながら、掛布団本体又は敷布からは血痕が検出されなかったのであり、なぜそのような結果となったのかについて、今日なお、これを明らかにする証拠は全く存しない。

しかし、頭髪に血液が付着した状態で襟当付掛布団を使用したなら、掛布団本体よりも襟当のほうに血液が二次的に付着しやすいことは容易に理解しうることであるし、特に当該襟当の大きさは、幅は掛布団本体の幅に近いものであり、奥行きもかなりあるものであるから、血液が襟当に付いて掛布団本体に付着しない場合もありえないではないこと、また襟当に付着していた血痕も薄く微小なものが多かったのであるから、掛布団本体から血痕が検出されなかったからといって血痕が掛布団本体に全く付着していないとまで断定することはできないこと、前記のように、三木、古畑ら鑑定人も、右の疑問のあることを前提としながら、襟当の血痕が頭髪から付着したということについて、抽象的な可能性を否定していないこと、更に、襟当の血痕については、今日まで明らかとならない別の付着原因が全くないとはいえないことからすると、右の疑問を解明できないからといって、そのことから襟当の血痕が捜査員により偽造されたものであると推測することは、些か飛躍があるというべきである。

なお、敷布から血痕が検出されなかったことについては、仮に当該敷布が事件当時原告一夫が使用していたものであるとしても、通常の使用方法によれば頭髪とは直接接触しにくいものであるから、特に着目すべきこととはいえない。

(4) 原告らは、原告一夫が仮に犯人であるとすれば、証拠が残らないように注意するはずであるが、松山事件発生後、少なくとも東京へ家出するまでの一〇日間、原告一夫は本件掛布団を使用していたはずであり、仮に襟当に多くの血痕が付着していたのであれば、その間これに気付かないはずはなく、これに気付きながら放置しておいたとも考えられない旨主張する。

前記5(二)(1)認定によれば、原告一夫は、松山事件が発生した昭和三〇年一〇月一八日から一〇日目である同月二七日に東京方面に家出したことが認められ、それまでの間自宅に寝泊りして本件掛布団を使用したこともあったと思われるが、<証拠>によれば、原告一夫は掛布団に血が付いていることは全然見たことがない旨供述している。

しかし、<証拠>によれば、原告一夫が使用していた布団等の上げ下ろしは祖母さきが行っていたこと、原告一夫は毎晩のように飲酒して遅く帰宅し、家では寝るだけであったようであること、布団の上げ下ろしをしていた祖母さきは、前記認定のとおり、当時既に七八歳であったから、視力が年齢相応に衰えていた可能性のあること、前記5の(三)で認定説示したように、本件掛布団の襟当に付着していた血痕と思われる斑痕は、数こそ多いものの、その大きさは、すべて襟当部分を丹念に観察しなければ発見することができない程度のものであったと認められることからすると、三〇数年前の寒村における不十分な照明設備の下で、原告一夫あるいはさきがこの血痕様斑痕の存在に気付かなかったとしても不自然とはいえない。

(5) 原告らは、原告一夫が東京へ家出した後の約四〇日間、本件掛布団は弟彰が使用していたのであるから、その間彰が血痕の存在に気付かなかったということも考えられない旨主張する。

前記(二)認定のとおり、本件掛布団は、原告一夫が上京前に使用していたものと認められるが、他方、同認定のとおり、原告一夫が昭和三〇年一〇月二七日に上京した後、彰がこれを使用していた可能性のあることは否定しえない。

しかし、原告一夫の上京後、彰がこれを使用したことがあったことを認めるに足りる確実な証拠はないし、仮にその事実があったとしても、前記のとおり斑痕は微細であったこと、祖母さきが布団の上げ下ろしをしていたことに照すと、彰が斑痕の存在に気付かなかったとしても必ずしも不自然ではないということができる。

(一二) 襟当の血痕は被害者らの返り血ではありえないか

原告らは、請求原因3(五)(1)ウのとおり、結論として、本件掛布団の襟当の血痕は被害者の返り血ではない旨主張するが、その論拠として述べている事項については、既に認定説示したとおり、いずれも採用することができず、原告らの主張は理由がない。

(一三) まとめ

以上に説示したところによれば、確かに、平塚掛布団鑑定の行われた経緯については今日明らかではなく、その他の本件掛布団をめぐる捜査手続についても、明らかでない点が多々認められる。しかし、それらは、疑問が提起されたのが事件から相当年数が経った後であったため、関係者が事実関係を全く忘れていたり、記憶が曖昧となっていたことが無視しえない事情として存在するのであり、今日これらの疑問を明らかにできないからといって、本件掛布団をめぐる捜査に不自然な点があったということはできず、まして、右のような疑問を完全に解明できないことを根拠として掛布団襟当に何らかの工作が行われたと推測するのは、飛躍があるというほかない。

また、確かに、襟当の血痕の付着状況及び掛布団本体から血痕が検出されていないことは、襟当の血痕が原告一夫の頭髪を介して付着した被害者らの返り血であるとすると、些かに説明しにくいことに違いないが、それが被害者の返り血でありえないとまでいうことはできないし、あるいは今日まで明かとならない別の付着原因が全くないとは言い切れない。更に、そもそも襟当の血痕は本件掛布団を押収した時すでに存在していたと認められるのであるから、これが警察職員により原告一夫の自白を補強する物証を作るために偽造したものであるという原告らの主張は採用できない。

6 捜査員は原告一夫が真犯人でないことを知っていたか

原告らは請求原因3(六)のとおり、捜査員は原告一夫が真犯人でないことを知っていたのに、原告一夫を犯人に仕立てるための捜査活動を行ったと主張し、被告県はこれを争うので、原告らが右主張の根拠であると主張する事実について、以下検討する。

(一) アリバイについて

原告らは、「捜査員は、原告一夫が一〇月一七日の記憶がないという弁解を聞かず、家族がアリバイを証言していたのにこれを無視し、『家では帰っていないと言っている。』などと偽って、原告一夫を自白に追い詰めた」と主張する。

(1) 原告一夫は、前述のように、取調べを受けた際、「一〇月一七日の晩は家に帰って寝ていた。」という主張も行ったが、捜査員から「家族は家にいなかったと言っている。」と聞かされて、アリバイ供述を変転させたことが認められ、また、同原告はいわゆる否認の手記(<証拠>)においても、「(一〇月一七日晩のことを)どうしても思い出せず頭がおかしくなりそうだった。」と記述し、高橋二郎の員面調書(<証拠>)によっても、原告一夫が留置場において、一〇月一七日晩の行動を思い出せず、「俺は頭がクシャクシャになる。」と述べて混乱していたような様子が窺われる。

そして、原告一夫にとって、小牛田町に入質に行き、最終列車で帰って来たというその日は、いわば特別な日であったというべきであるが、鹿島台駅から自宅までの道のりは普段と変らない夜道であったはずであり、夜遊びが日常的な同原告にとって格別記憶に残ることがなかったとしても不思議ではなく、四〇日以上経過してからその夜の行動を問われて答えられなかったとしても無理からぬことであるかのようである。

しかし、

① 松山事件は、平穏な農村地帯で発生した一家四人殺害放火という凶悪犯罪であり、原告一夫方を含む付近住民に非常な衝撃を与え。しばしば話題に上っていたことが窺われ、原告一夫自身も関心を持ち新聞記事を読んだり(<証拠>)、友人達とも話題にすることがあった(<証拠>)ことが認められること、

② 原告一夫は、酒好きで夜遅くまで飲み歩いたり(弁論の全趣旨)、仲間とヒロポンを射ったり(<証拠>)、映画館で周囲の迷惑になるような行動もあったことが窺われ(<証拠>)、付近住民から与太者と見られていたことは本人も自覚していたであろうと考えられ、また、被害者方まで徒歩一五分程度という地理的関係(<証拠>)から、犯人に疑われるかもしれないことを予期しえたのではないかと考えられること、

③ 実際、事件後東京へ家出するまでの一〇日という短い間に、警察官から再三、事件当夜のアリバイについて事情聴取を受けたことがあり(<証拠>)、母からも「お前が忠兵衛さんたちを殺したのではないだろうな。」と一度ならす質問されたことがあること(<証拠>)

などの事情からすると、通常人の自然な心理思考からすれば、幾度となく当夜の行動について記憶を喚起する機会があったということができ、当夜原告一夫は小牛田町で焼酎、清酒併せて三、四杯を飲んでいるが、同人は当時二〇度の焼酎を一升以上も飲めた(<証拠>)というのであるから、酩酊の影響で記憶がないというような状態ではなかったと推測されるし、その日小牛田駅で最終列車に乗るまでの行動、出来事についてはかなり詳細かつ具体的に供述しているのであるから(<証拠>)、原告一夫がその後の行動のみを記憶していないということは不自然であって、捜査員がその弁解をただちに信用しなかったとしても不合理といえない。

なお、原告一夫は、否認に転じた後、「小牛田で列車に乗ったことまでは覚えているが、それ以後の記憶は一切ない。翌朝気がつくと家の炉端に座っていた。」旨(<証拠>)、「鹿島台駅下車後、『二葉』の店の前で渡辺夏子と立ち話をした後、家に帰って寝た。」旨(<証拠>)供述を変転させていたが、渡辺夏子は「二葉」の前で原告一夫に会ったことはないと供述し(<証拠>)、同じく「二葉」の女給であった山本貴子も同様の供述をしていた(<証拠>)。

(2) 原告一夫のアリバイに関する家族の供述は次のとおりである。

兄甲野常雄は、

① 一二月三日、高橋九夫巡査部長に対し、「一〇月一七日は、午後八時に床に着き、一眠りしてからうつらうつらしていた時に一夫が帰って来て、玄関の戸か勝手入り口の戸かどちらかはっきりしないが戸を開けた音がして、座敷に歩いて行ったのが分かった。それは午後一〇時過ぎころと思う。」旨供述し(<証拠>)、

② 一二月七日、佐藤三郎巡査部長に対し、「一〇月一八日の朝、サイレンと半鐘の音で目覚めたが、外へ出ても火の手が見えないので、再び床に入った。床に入る前、便所へ行き、その際、奥八畳間の障子を開けたところ、電気が消してあったのではっきりしたことは分からないが、布団の下半分の状態からして弟三人(一夫を含む)が寝ていると思った。一夫の姿は一〇月一七日午後七時ころから一八日午前七時ころまで見ていないが、一七日午後一〇時過ぎころ、戸の開いた音を夢うつつに聞いたような気もするので、このとき一夫が帰って来たのではないかと思っていた。」旨供述し(<証拠>)、

③ 一二月一六日、大津検事に対し、「何時ころか分からないが、うつらうつらしている間に玄関の戸が開くような音、それに続いて茶の間、六畳間を通って八畳間に行くような足音と障子等を開けたり閉めたりするような音を聞いたような気がする。ただそれだけで言葉もかけなければ姿も確かめた訳ではないので一夫がそのとき帰って来たとはいえないが私の感じでは一夫が帰ったのかなとうつらうつらしている間に頭に浮んだ。」旨を供述(<証拠>)していた。

常雄の妻美代子は、

① 一二月三日、高橋巡査部長に対し、「一〇月一七日は午後一〇時ころ家族中で一番最後に寝たが、一夫はまだ帰っていなかった。一八日は午前四時ちょっと前に起きてその後眠らなかったが、午前八時ころ一夫が起きて来たので、午後一〇時から午前四時までの間に帰って来たものと思う。」旨を供述し(<証拠>)、

② 一二月七日、同じく高橋巡査部長に対し、「一七日午前四時ころ火事騒ぎがあってから再び布団に入ったが、眠れずにいて、五時ころ朝食の支度のために起きた。一夫がいつ帰っていたのか分からないが、午前八時ころ起きて来て朝食を済ませた。」旨を供述していた(<証拠>)。

しかし、これらの供述は、一〇月一七日晩から一八日朝にかけて、原告一夫の姿をはっきり見たというものではないうえ、原告一夫は、自白していた際には、「(犯行後帰宅した際に、家人に)見付けられないように、戸の中頃の桟を両手で持ち上げるようにして開けると音がしませんが、閉めるときも同じようにして入りました。家の中は、勝手の方に電気がついて居りましたから、姉さんが起きて、ながしに居たと思ひました。私が玄関からすぐ縁側を通って部屋に行きましたが、そのときも家の人に見つかると大変だと思って音をたてないようにして行」ったと供述していたから(<証拠>)、美代子が原告一夫の帰宅に気付かなかったとしても不自然ではないし、また、常雄の供述には一二月三日のものと七日のものの間に違いがあり、原告一夫が帰宅したような音と聞いたという点については、それが一七日晩のことであると特定できる根拠、四〇日以上経過しながら記憶している理由が明らかではなく、便所に起きた際に障子を開けたという点も何故そうしたのか合理的な理由が考えられず不自然であり、むしろ美代子は、夫が便所に起きた際には障子を開けたり原告一夫の寝室を覗いたりした様子はなかったと供述していたのであるから(<証拠>)、右常雄の供述は、弟を庇う意図から出た言葉とも考えられ、信用性はあまり高くないと判断されるのであって、結局これらの供述によっても、原告一夫が事件当夜帰宅していたことを証明するに足りるものではなかったというべきである。

むしろ、いつも原告一夫と同じ部屋で寝ていた弟の甲野彰は、一二月七日、嶺岸巡査に対し、「一八日未明に火事騒ぎを聞いて目を醒ましたが、電燈も点けず、床に寝たまま夢うつつで聞いていて、そのまままた眠ってしまったので、兄(原告一夫)が隣で寝ていたかどうか分からないが、寝息も聞こえなかったので帰っていなかったと思った。」と述べている(<証拠>)。

(3) 以上のとおりであるから、捜査員が原告一夫にアリバイがないと判断したとしても不合理とはいえない。

そして、原告一夫は、前記3(三)(1)に認定したように、一二月二日には、「母の家に泊まった。」、同月五日には「家に帰ったかどうか、記憶がない。」、同月六日にかけては「母の家に泊まった。」、「柴さんの家に泊まった。」と供述を変転させた末に自白したのであり、確かに重大犯罪を犯した者であればアリバイについてもう少し上手な弁解を用意しておいてよさそうなものであるということもいえるが、一面、アリバイを追及された真犯人が、適当なアリバイを思い付かないときに、薄弱なアリバイ供述を変転させた末に自白するということは、自白に至る経過として自然であり、アリバイを追及されて追い詰められることが直ちに虚偽の自白に結び付くとは考えにくいのであるから、これを自白の信用性を認める一根拠と評価したとしても経験則に反するとはいえない。

(二) 動機について

原告らは、原告一夫の松山事件の動機に関する供述は不自然なものであるのに、捜査員らはこれを無視したという。

(1) 原告一夫は、松山事件犯行の動機について、「一〇月一六日午前、忠兵衛の妻嘉子が原告一夫方に木材を購入に来たのを目撃して、忠兵衛方では金ができたので普請をするものと思った。翌一七日、小牛田から自宅に帰る途中、飲み屋の借金の支払いに困っていたことから、忠兵衛方に盗みに入る考えになった。忠兵衛方に入って寝姿を見ているうち、顔を見られては困ると思い、一家殺害を決意して殺害し、殺害後証拠をなくすために放火した。」と供述していた(一二月六日、同月七日各員面調書・<証拠>)。

(2) 捜査の結果、原告一夫に借金のあることは、次のとおり裏付けられた。

① 飲食店「三好」に一三二〇円(<証拠>)

② 大野屋に一二〇〇円(<証拠>)

③ 山口理髪店に三五〇円(<証拠>)

④ 飲食店「すみれ」に三六〇円(<証拠>)

⑤ 飲食店「金森屋」に一五二〇円(<証拠>)

⑥ 飲食店「光月庵」に一八〇〇円(<証拠>)

⑦ 佐々俊夫に七〇〇円(<証拠>)

⑧ 笠原英一に二九〇円(<証拠>)

⑨ 熊倉安司に五〇〇円(<証拠>)

合計八〇四〇円

(3) しかし、前記借金の額は、現在と貨幣価値が大きく異なることを考慮しても、それほど多額であるとまでは言えず、狭い社会のことでもあり、強く請求されていたものはなく、また、担保として衣類や自転車を置いて来ているもの(①②⑥)もあり、確かに⑤及び⑦については貸し主に出会うと自分のほうから「もう少し待ってくれ」などと言って気にかけていた様子も窺われるが、⑥については請求された際に「時効にかかったから今頃ないと思っていた。」と答えていたように、それほど気にしていなかったようであること、金がなければ友人知人に酒を奢って貰うこともあり、事件の翌日である一〇月一九日夜にも、清俊治、佐藤隆吉らに奢って貰って深酒していること(<証拠>)、前年来、自宅から米を盗んで他へ売却し、その代金で飲食していたことも窺われ(<証拠>)、あたかもそのころは新米が取れる時期であって、事件の八日後の一〇月二五日には、友人金澤定俊とともに二度にわたり実家から合計七斗の米を盗み出して売却し、飲食していること(<証拠>)、母である原告春子も原告一夫には甘く、求められれば比較的簡単に小遣いを与えていたこと(<証拠>)が窺われ、以上の事実からは、原告一夫は、緊急に金を必要とするような状況にはなく、計画的に敢えて殺人を犯してまで金銭を奪う動機に直結するとは言い難かったと認められる。

一方、小原方は、夫婦とも日雇いをして生活する月収七、八千円程度の貧農であり(<証拠>)、六畳と八畳の二間及び下屋の台所しかない藁葺きの家の外観(<証拠>)からしても経済的に豊かな家庭には見えなかったと思われるのであり、盗み目的で狙いを付けるような家とは一般的には考えにくい。

また、確かに、右(1)の自白は、「当初窃盗目的で小原方に侵入したが、寝姿をみるうちに顔を見られては困ると思い、殺害を思い立った。」と窃盗目的から強盗殺人の動機を生じたことを一見自然な心理過程のように語るが、通常の居直り強盗のように顔を見られたり騒がれたりしたために殺害を決意したというならともかく、未だ顔を見られてもいない段階で殺意を生じたというのであり、「顔を見られては困る」のであれば覆面することも、後日あらためて空き巣狙いをすることも考えられるうえ、右のように原告一夫は緊急に金を必要とする状況にあったとは認め難かったと思われるのであるから、「顔を見られては困る」ということから殺意を生じたというのは、通常の心理思考による判断としては理解しにくいというべきである。

(4) けれども、右(2)のように町内の飲食店に借金があれば、これらの店に飲みに行くのが憚られることは事実であり、母から貰える小遣いにも限界があったであろうし、家から米を盗み出すことがいつまでも許されるものではないことは予想できたであろうから、酒好きな原告一夫が遊興費に困っていたという判断は不合理とはいえない。現に原告一夫は九月末ころ加藤の持っていた柔道大会の前売券販売代金二〇〇〇円を「二葉」での飲食代金に使い込ませたため、事件のあった一〇月一七日晩には、その穴埋めに自分のスプリングコートを小牛田町において質入れしているのである。そして小原方は当時増築工事中であり、一〇月一六日午前九時ないし一〇時ころには小原嘉子が原告一夫方から材木を一二〇〇円で買って行った事実があり(<証拠>)、これを原告一夫は見ていたと供述していたこと、そうだとすれば原告一夫が小原方にまとまった現金があると考えたという供述も自然であること、また、原告一夫は小原方の場所を知っており、忠兵衛とは以前自宅製材所で一緒に働いたことがあることから同人と顔見知りであって(<証拠>によれば、父虎治も小原忠兵衛を使用したことがあると供述していた。)、嘉子の顔も彼女が忠兵衛の妻であることも以前から知っていたと供述していたこと(<証拠>)などの事実からすると、原告一夫が小原方に物盗り目的で侵入したとしても不自然ではなく、顔を知られていることが盗犯の障害となることも確かであり、犯罪者が目的と手段の相当性をその場で冷静に判断して行動できるとは限らず、わずかな金員を盗む目的で結果的に複数の人を殺害してしまうことも世上稀とはいえないのであるから、原告一夫の犯行動機に関する供述が不自然、不合理であったということはできず、したがって、捜査員が原告一夫の無実を知るべきであったということもできない。

また、高橋二郎の一二月七日付員面調書(<証拠>)によれば、自白した晩、原告一夫は高橋に対し、「家の中にあったマサカリを見付けて入って行ったところ親父に眼を醒まされたので面倒だったので親父のほうから殺した」と、殺意を生じた経緯について、右(1)の捜査員に対する自白と異なる内容を話していた事実も窺われるのである。

(5) なお、一〇月一六日に原告一夫が小原嘉子の材木購入を目撃したという事実の裏付証拠として、原告一夫方の近隣に住む金森むつ子は、「その日嘉子が材木を買いに来たとき、原告一夫が家にいるのを見た。兄常雄、弟彰と製材していたと思う。」旨供述していたが(一二月一八日付員面調書<証拠>)、兄常雄、弟彰及び勝は、その日嘉子が自宅に来た時には、原告一夫はいなかったと思う、嘉子から頼まれた材木を製材したのは常雄、彰、勝の三人であったと述べており、(<証拠>)、金森むつ子の右供述の信用性を減殺している。

しかし、常雄らは、田んぼで稲上げをしていた際、妹友子の連絡により嘉子の来訪を知り、家に戻って製材作業をして嘉子に材木を売却し、その後再び田んぼへ戻ったのであり、家の中まで原告一夫を積極的に捜したのではなく、その際同原告の姿を見なかったと述べていたにすぎないのであるから、右常雄らの供述は、「中座敷の障子があいて居りましたので、兄貴と忠兵衛さんの奥さんが私の家の勝手の前庭のところで、材料のことで話しているのを聞きましたがどのような材料をいくらでやったか金を受け取ったかどうかと云うような詳しい内容はきいて居りません。」という同原告の自白(一二月一四日付員面調書・<証拠>)に矛盾するとはいえない。

もっとも、常雄は、「家の前で材料をひいたのでしたが、そのとき、座敷の障子戸が開け放しになっていたので、居ればわかる訳でしたが、姿が見えなかったので、一夫はいなかったと思って居ります。一夫がいるかいないかと言ふことは、婆ちゃん(きさ)に聞いて見ましたら、御飯を食って出て行ったと言ふものでしたから」と供述していたが、前述のように、常雄は原告一夫のアリバイについて原告一夫を庇う意図を思わせる供述をしていることからすると、この供述も信用性が高いものとはいえなかったというべきであり、むしろきさは、「稲上げの日の午前中、一夫が手伝わずに家でブラブラして居りましたので、お昼近くに私が一夫に、今日は稲上げだから手伝ふんだぞ、と言ったことを記憶して居ります。」と明確に述べており(一二月一九日付検面調書・<証拠>)、きさが七八歳の無筆であったとしても、嘉子の来訪を記憶していない理由について、「私は茶の間か玄関辺りで曾孫をだましながら、ボロつぎ等をしておって、お客様にはたいてい顔を出しません。」と説明できる思考力のあったことからすると、その供述の信用性は必ずしも低いものとはいえず、嘉子の来訪当時、原告一夫が在宅していた可能性が高いという判断は不合理ではなかったというべきである。

また、上部孝志は、「一〇月一五日から一七日ころまで連日、原告一夫と一緒に映画を見に行ったが、原告一夫が迎えに来たのは、早くて一一時ころだった。」と要旨供述していたのであり(一二月一七日付員面調書・<証拠>)、「その日(一〇月一六日)は、お昼頃から遊びに行って、確か映画を見たと思ひます。」という原告一夫の自白(<証拠>)を一部裏付けていた。

以上のとおりであるから、原告一夫が嘉子の材木購入を目撃したことについて関係者の供述は一致しているとはいえないものの、同原告がこれを目撃した可能性は、当時の証拠上十分に肯認しえたというべきである。

(6) 以上を総合すれば、原告一夫の動機に関する供述は、殺意を生じた経緯に些か特異な点が認められるものの、格別不自然であるとまではいえず、客観的な証拠に矛盾するものでもなかったのであるから、捜査員が原告一夫の無実を知るべきであったとはいえない。

もっとも、原告一夫に借金のあること、小原嘉子を目撃しているらしいことは、前述1(二)(1)のとおり原告一夫を逮捕する以前に捜査本部が把握していた事実であり、この点からは、捜査員が設定した右のような動機を原告一夫に誘導により供述させたという可能性も否定できないから、動機に関する供述が自白全体の信用性を基礎付ける重要な要素であるとはいえない。

(三) 事件後の行動について

原告らは、原告一夫は事件後も以前と同様の遊興生活を送っていたのは凶悪犯罪を犯した者の行動とは思われず、東京へ家出した事情にも不審な点はないと主張する。

(1) 確かに、原告一夫は、事件のあった一〇月一八日は、朝八時ころ起きて遅い朝食を一人で取り、九時ころ佐藤源一(よね子)方の土盛り工事に行き、先に行って働いていた虎治、常雄、彰らと午前中これに従事したが、午後からはこの仕事を一人抜け出して町に遊びに行ってしまったこと(<証拠>)、一九日晩には友人らに奢って貰い、深酒していること(<証拠>)など、普段と変わりのない生活をしていることが認められる。また原告一夫は、「一〇月一八日晩に清俊治のおごりで、同人と早坂隆と三人で飲み、更にたまたま出会った佐藤隆吉におごって貰い、同人と早坂と三人で『二葉』で飲んだ。」と供述しているが(一二月一三日付員面調書・<証拠>)、関係者の供述によれば、これは右の翌一九日の出来事を勘違いしているものと思われ、事件当日の晩に飲んだかその翌晩に飲んだかもよく覚えていなかったらしいことが認められる(なお、起訴直前の一二月二九日付検面調書・<証拠>によれば、同原告は、一〇月一八日の行動について、朝理髪店に行き、帰りに加藤浩に出会い、その後佐藤方の工事に行き、午後からは上部孝志と遊びに行き、晩には加藤浩と上部孝志と共に岩淵旅館で酒を飲んだと、従前とかなり異なる供述をしているが、右岩淵旅館での飲食については裏付証拠はない。)。

しかし、事件後も以前と変わらず遊興に明け暮れる生活をしていることが凶悪事件の犯人としてそれほど不自然であるということはできないし、事件後、日常生活に戻ってからの自己の行動に記憶違いが生じることも特に不自然とまではいえないから、このことから捜査員が同原告の無実を知るべきであったとはいえない。

(2) 次に、原告一夫が東京へ家出した経緯を見ると、同原告は一〇月二五日の晩、金澤定俊を誘って自宅から二度にわたり米合計七斗を盗み売却したが、これは父虎治の知るところとなり、怒った同人から通報を受けた派出所の警察官により、翌二六日朝、金澤とともに泊まっていた大野屋旅館から派出所へ連れて行かれて説諭を受け、その後父に謝ろうと思って電話したところ、父の許しを得られそうになく、その晩同様に家に帰りにくくなった金澤と日の丸旅館に泊まった際、金澤が「いい働き口を知っているから東京へ行こう。」と提案したため、翌二七日、金澤とともに東京へ家出することとなったこと、また、両名との別れを惜しんで岩切駅まで送るつもりだった清俊治も、両名に誘われて一緒に東京まで家出してしまったことが認められる(<証拠>)。

そして、東京へ行くということは、着替えを取りに家に戻った際に兄嫁美代子に告げたほか(<証拠>)、東京で働いていると聞いていた上部道子の住所を教えてもらおうとして同女の実家に立ち寄った際には同女の弟の上部孝志にも告げており(<証拠>)、東京に家出した後も、阿住領や早坂信ら、同郷出身者のもとを訪ね(<証拠>)、板橋区で肉屋の店員に落ち着いた後には、布団を送って欲しい旨自宅に所在を知らせる手紙を書くなど、逃走目的で家出したものとは認めにくい行動が窺われる。また、確かに上京することにより松山事件の捜査の手が届きにくくなるともいえるが、逆に、警察から逃走目的ではないかと疑われることも予想できたのではないかとも思われるのである。

もっとも、東京に着いてわずか三日後には、一緒に上京した金澤、清らに行先も告げずに、当時の寄宿先であった大田区の神山豊吉方(とび職)を出て、板橋区の上部道子の住込勤務先であった山本文子方に転がり込むという不可解な行動もあり(<証拠>)、これは捜査の手から逃れる意図があったのではないかと思わせないではないが、そのことを友人達に告げなかったのは、同人の計画性のない表れとも、また道子が同年代の異性であることから、友人達に言い出しにくかったためとも考えられないではない。

以上のとおりであるから、原告一夫の東京への家出が逃走目的であったと断定するまでの事情が存在していたとは言い難く、少なくともこの事実を原告一夫の嫌疑の有力な状況証拠と見ることはできない。

しかし、原告一夫は、一二月一〇日の検察官に対する弁解の機会にも、「松山事件のことが不安でもあったし、家の米等を盗んだりもしましたので、東京へ行ったわけでした。」と供述しており(<証拠>)、捜査員や検察官に対して右のような上京の経緯を弁解したことはなかったようであり、また、高橋二郎の一二月八日付員面調書(<証拠>)によれば、原告一夫は留置場内で高橋に対し、「東京で働いていて今度捕まる三日前頃、主人から暇を貰って何処かへ逃げようと思っていたが、暇を取らずにいる中に捕まってしまった。俺は悪運が尽きたのだ。」と述べ、あたかも東京を足場に更に別の場所へ逃走する意図があったかのように述べていたことが窺われるのであるから、右のような家出に関する経緯の裏に逃走の目的が隠されていたという見方もできないではなく、この点に関して捜査員が原告一夫の無実を知るべきであったとはいえない。

(四) 平塚着衣鑑定の取扱い

原告らは、平塚着衣鑑定の結果、本件ジャンパー、ズボンに血痕の付着が認められなかったのであるから、捜査員らは原告一夫の無実を知るべきであったと主張する。しかし、この主張の採用しえないことは前述4のとおりである。

(五) 小原方の電灯に関する供述及び捜査

原告らは、「被害者方の電灯引込線の外線は人為的切断であるかのように切断されており、右電灯は消えていた疑いがあるのに、その捜査を不徹底のまま、原告一夫から『電灯は点いていたようだ。』という曖昧な供述を引き出した。」と主張する。

電灯引込線の外線の切断原因については、事件直後に捜査員により行われた小原方の実況見分の結果(<証拠>)によれば、「配線は隣家上野真一方の裏の薮のところにある電柱から引込線で被害者方の玄関の東隅のところから、屋内に配線されており、その外線の約三〇糎のところから焼け切れた如く切断されている。」というのであり、火災が原因であるかのようであるが、県警鑑識課において鑑定(昭和三〇年一〇月二二日付鑑定嘱託)した結果によれば、「電線の切断面はペンチとかクリッパーの様なもので切断されたものではない。何か重い物でも上から落下するか引っ張られて切断したものの様である。」と判断されたことが認められ(<証拠>)、尾形俊夫の昭和三〇年一二月九日付員面調書(<証拠>)及び尾形靖の同月一〇日付員面調書(<証拠>)によれば、同人らが小原方の焼け落ちる前に駆けつけた際、すでに電灯引込線は切れていたというのであるから、これは焼け切れたものでも、小原方の倒壊の際に引き切れたものでもないこととなり、人為的切断が疑われないではなく、犯行の前又は後に犯人がこれを切断した可能性もあるということができる。

しかし、右は一つの可能性として考えられるに過ぎず、薪割(またはこれに類する凶器)により一家四人の頭を割るという犯行態様が暗闇の中では困難なものと思われることからすると、犯行前に犯人により電灯引込線が切断された可能性が高いとはいえず、放火したうえ更に電源を断つ必要性も考えにくいから、犯行後に犯人によりこれが切断された可能性も高いとはいえない。したがって、原告一夫の自白がこのことに触れていないことが不自然であるということはできないし、電灯引込線の切断原因の捜査が不徹底であったいう評価も相当ではない。

また、原告一夫の一二月六日付員面調書(<証拠>)から認められる「(小原方には)電灯が点いていたようで、北側の障子から光が漏れていたようであります。」という供述は、それだけ取り出してみると経験者の供述らしからぬことは否定できないが、これは、その前後関係からすると、小原方を外から見た時に、明りが漏れていたような印象であり、電灯が点いているのではないかと推測したという趣旨の供述のようにも思われ、一二月八日付員面調書(<証拠>)には明確に「電灯は点いていた」という供述記載があるのであるから、特にこれを不自然とまでいうことはできない。

なお、原告らは、原告一夫を起訴した後も、捜査員が小原方電灯が点いていたかどうかについて部落各戸に徹底した聞込み捜査を行っているのは(<証拠>)、事件当夜小原方電灯が消えていたという情報があったからであると考えられ、原告一夫の自白に反する可能性があると主張するが、この聞込み捜査は、前述のような電灯引込線の切断原因が明らかでないということから行われた可能性もあり、右捜査の結果、小原方電灯は点いていたとも消えていたとも確たる情報は得られなかったと認められるから、原告らの主張は採用しえない。

以上のとおりであるから、電灯に関する捜査員の捜査が不十分であったということはできず、これに関する捜査の態度ないし原告一夫の供述から、捜査員が原告一夫の真犯人でないことを知っていたと認めることもできない。

(六) 自在鉤に関する供述および捜査

原告らは、「原告一夫の自供に基づき小原方の切炉跡で自在鉤が発見されたことになっているが、これは、捜査員が原告一夫を犯人に仕立てようと、誘導により同原告から切炉の上に自在鉤があった旨の供述を得て、予め別の場所で発見されていた本件自在鉤を、右供述の後に切炉跡で発見したことにしたものである。」と主張する。

確かに、

① 自在鉤発見の捜査報告書(<証拠>)によれば、本件自在鉤は一二月七日午前一〇時に千葉警部補が小原方焼け跡でこれを発見したことになっており、原告一夫の供述調書で自在鉤のあったことが最初に出てくるのは、同日付の供述調書添付図面の切炉付近に小さく「カギ」として図示されているものであるが、原告一夫に対する取調べはたいてい九時ないし九時半ころから行われていたようであること、古川署から松山町の小原方焼け跡までは一五キロメートル以上ある当時未舗装路であったことからすると、原告一夫の自供に基づいて千葉警部補が捜索に行き、本件自在鉤を発見したものとすると、発見時刻が午前一〇時であるというのはやや早過ぎる印象があること、

② 自供の裏付けとしてただちに自在鉤を捜索し、これを発見したのであれば、客観的証拠の少ない事件であっただけに、捜査員としては自在鉤発見の捜査報告書ないし七日付供述調書にそのことがわかるように記載して然るべきと思われるのに、そのような記載がないのは、やや取扱いが軽過ぎる印象があること、

③ 事件直後の一〇月一八日の実況見分では、切炉周辺を詳しく見分したことが窺われるのに(同日付実況見分調書・<証拠>)、長さ約一メートルの鉄製の本件自在鉤がその際発見されていなかったということは考えにくいこと、

④ 大窪留蔵、矢吹徳之進、尾形ミユキ、新田としのの各一二月八日付員面調書(<証拠>)及び小原忠子の一二月九日付員面調書(<証拠>)を総合すれば、この自在鉤は、以前から小原方の下屋(台所)の炉に下げられていたが、大工の大窪が一〇月一六日改築工事のため下屋を取り壊した際、取り外して風呂場のところに出しておいたものであり、六畳間の切炉には別に古い木製の自在鉤が掛けてあった可能性があり、本件自在鉤が事件当夜六畳切炉の上に掛かっていたことの裏付けがないこと、

⑤ 原告一夫は、確定第二審第二回公判の被告人質問において、「切炉の上に何かなかったか、と警察官から聞かれたので、切炉の上なら普通自在鉤があると思い、その旨供述した。」と、自在鉤のことは想像により述べた旨を供述しており、実際、切炉の上にあるものと問われて自在鉤を思い付くというのは、当時の農家の構造、生活からすれば当前のことであろうから、想像によって述べたという右弁解が不自然とはいえないこと

などの事情が認められる。

しかし、右①については、一二月七日の取調べの早い段階で自在鉤に関する供述がなされたのであれば、同日午前一〇時に自在鉤が発見されたとしても特に時間的矛盾はないこと、右②については、千葉六男の証言によれば、同人は、亀井警部から「現場の切炉周辺に自在鉤があったら捜して持って来てくれ。」と頼まれたので捜索に行ったというのであるから、その捜査報告書に自在鉤発見が自供に基づくことを記載すべき立場になかったというべきであること、また原告一夫の自供に基づいて自在鉤が捜索発見されたことを証明する方法として七日付供述調書に自在鉤に関する供述記載を行うことが必要不可欠であるとはいえないこと、右③については、仮に本件自在鉤が小原方の切炉以外の場所に存在したのであれば、そのことが実況見分調書に記載されていて然るべきであるということもでき、むしろ、自在鉤は切炉周辺にあって当然のものであるから、これが切炉周辺にあったのであれば、捜査員がその存在に特に着目せず、実況見分調書に記載しなかったということも十分に考えられること、右④については、確かに六畳切炉に本件自在鉤が掛かっていたということの裏付証拠はないけれども、小原方では下屋を取り壊した後は六畳切炉において炊事をしていた可能性が高いのであるから、事件当夜本件自在鉤が六畳切炉に掛けられていた可能性も十分ありうること、右⑤については、原告一夫が上告趣意書(<証拠>)において主張する自在鉤に関する捜査員との問答は、「切炉の上に何かなかったか。」という捜査員の問に対し「自在鉤があった。」と同原告が答えたところ、捜査員は「五徳はなかったか。」と質したというのであり、自在鉤のあったという答は捜査員が予想していた答ではなかったのではないかと思わせるものであるし、「切炉の上に何かなかったか。」という問があったにせよ、自在鉤のあったことを言い出したのは、捜査員の誘導によらず、原告一夫が自発的に述べたことが窺われること、また、一〇月七日に千葉警部補が小原方焼け跡に赴いたのは、自供の裏付け捜査の目的以外には考えにくいこと、以上のことから、右①ないし⑤によっても、捜査員が本件自在鉤を予め発見していたこと、原告一夫を誘導して自在鉤の存在を述べさせたこと、本件自在鉤が切炉周辺以外の場所に存在したことのいずれの事実も認めることはできず、他にこれらの事実を認めるに足りる証拠はなく、捜査員が原告一夫の無実を知っていたとも、知るべきであったともいえないから、原告らの主張は採用できない。

むしろ、本件自在鉤が小原方に存在したことは事実であり、それが切炉跡周辺において発見されたという捜査報告書の記載の信用性を疑うべき事情は特になかったのであるから、確かに自在鉤は当時の農家にありふれた存在であったとしても、この事実は原告一夫の自供に符合するということができ、当時の捜査員がこの事実を原告一夫の自白の信用性を肯認する方向に働く事情の一つであると判断したとしても無理からぬことというべきである。

(七) 殺害方法に関する供述

原告らは、「殺害方法に関する原告一夫の自白は、被害者らの寝ていた姿勢及び加害部位に限って詳細かつ具体的で、興奮状態にあったはずの者の供述としては不自然であり、右被害者らの姿勢及び加害部位は被害者四名の死体鑑定書から認められる受傷部位等に対応しており、これは捜査員の誘導によるものである。また殺人という異常な行為をする際には、平常心ではありえなかったはずなのに、殺害行為時の感情の動きについてはまったく触れておらず、具体性を欠いている。」と主張する。

(1) そこで検討するに、このことに関する原告一夫の供述は、一二月七日付員面調書(<証拠>)によれば、「私の位置は奥さんの頭の稍々右うしろの約一尺五寸位のところから、中腰になって最初は忠兵衛さんの頭に切りつけたのであります。忠兵衛さんの顔は奥さんの方、すなわち縁側の方に横向きになって居りましたので、上になっている右耳の頭部のところを三、四回切りつけました。その次は、其の場所で奥さんを切りつけたのでありますが、奥さんは顔を上に向けて居りましたので、その左耳脇の頭のところを続けて三、四回切りつけたのであります。その次は男の子でありますが、奥さんの方を向いて寝ていたので、左耳をかけ、頭と顔を三、四回つづけざまに切りつけたのであります。その切りつけた位置は、奥さんと男の子の頭の中間頃で前と同じ距離で子供の方に向いてやったのであります。最後は女の子でありますが、女の子も男の子と同様奥さんの方をむいて居りましたが、切りつけた位置は、女の子の頭のうしろの稍々右側に立って、左耳の辺りの頭と顔を三、四回切りつけました。」というものであり、次の「被害者の反応に関する供述」と比較して、かなり詳細かつ具体的である。しかも、これら被害者の寝ていた向き及び加害部位は、被害者らの死体鑑定の結果(<証拠>)から認められる創傷の部位から推測しうる範囲のことであるし、捜査員は、事件直後の実況見分に際して死体を見分し、また死体解剖にも立ち会うことにより(前記各死体鑑定書には立会人として亀井八郎の名が記載されている。)、右創傷の部位を知っていたと思われる。すると、右供述の内容は捜査員による誘導が可能なものであったということができる。

しかし、右供述がどのような問答の末に調書にまとめられたものであるか明らかでなく、結局のところ、これが誘導によるものであることを認めるに足りる証拠はないし、見方を変えれば、これだけ詳細かつ具体的な供述は、全部が誘導によるものとは考えにくいのであり、かつ原告一夫が犯人であったと仮定した場合には、被害者らに対する攻撃部位をほぼ正確に記憶していたとしても特に不自然とまではいえないから、原告一夫が自発的に述べたものである可能性も十分にあると思わせるものである。

(2) 次に殺害時の感情の動きについて原告一夫が触れていないことについてであるが、確かに、原告一夫の供述するような被害者四名の頭部に正確に薪割を振り下ろすという犯行態様であれば、視線をそらしてこれを行うことは困難と考えられるから、被害者らの寝顔や場合によっては目を覚ました顔を目撃した可能性が高く、行為者には強烈な印象が残るのではないかと思われるのであり、原告一夫がその時の印象や感情について全く触れようとしないのはやや不自然な印象がある。しかし、被疑者によっては捜査員が積極的に質問するまでは余計なことは言わないという供述態度を示す者もあるのであるから、原告一夫の供述態度がどのようなものであったか明らかでない以上、犯行時の印象、感情についての供述がないということをもって不自然であると断定することは相当ではない。

(3) 以上のとおりであるから、原告一夫の殺害方法に関する供述が不自然であるということはできず、捜査員が原告一夫の真犯人でないことを知るべきであったということもできない。

(八) 被害者らの反応に関する供述

原告らは、「原告一夫の殺害行為時の被害者らの反応に関する供述は、経験者の供述としては不自然である。」と主張する。

原告一夫のこの点についての供述は、

① 一二月六日には、「夢中になっていたので、家族の人達が叫んだか、うなったかよくわかりませんでした。」と述べ(<証拠>)、

② 一二月七日には、「夢中でしたので、泣き声を立てたり又起き上がったということはまったく覚えて居りません。」と述べ(<証拠>)、

③ 一二月九日には、「誰だったか覚えて居りませんが、一人か二人か『ううん』といったうなり声を立てたように思って居ります。然し、そのうなり声もあまり高いものではありませんでした。」と述べ(<証拠>)、

④ 一二月一一日には、服部検事に対し、「忠兵衛を殴りつけてからは夢中であったので当時のことは余りはっきり記憶に残っておりません。」と述べており、(<証拠>)、

「夢中だったので、はっきり覚えていない。」という点では一貫しているものの、極めて具体性を欠く。

しかも、被害者らは畳を剥した板張りの上に敷布団を敷いて寝ていたらしいのであるから、薪割で四人の頭部に数回ずつ切り付けるという殺害方法によれば、被害者の一人に対し薪割りを振り下ろした音ないしは衝撃により他の被害者らが目を覚ますのでないか、そして驚愕のために叫び声を上げたり、逃避、抵抗のための何らかの行動を起こすのではないかという疑問がある。

実際、一〇月一八日付実況見分調書(<証拠>)の添付見取図第二図によれば、被害者ら四人の死体の並び方は、寝ていたままの位置というにはやや不自然に乱れており、被害者らの抵抗ないし逃避の行動を思わせないではない。

しかし、薪割(後述のように、客観的にもこれが凶器として可能性が高いと認められる。)で正確に頭部を割るという犯行態様は、被害者らが寝ていた場合には容易であるが、抵抗ないし逃避の行動を起こした場合には困難であることを考えると、右死体の状況等から被害者らの抵抗等を推測できるとまではいえないし、被害者らが熟睡していたとすれば、寝ぼけまなこで眼前に生じている事態を認識するまでに自らも攻撃を受け、格別の反応を示す以前に絶命することもありえないではなく、また事態を認識したとしても、驚愕のあまり声も出ないということも考えられ、特に原告一夫の供述していたように、忠兵衛(五三歳)、嘉子(四二歳)、雄一(六歳)、淑子(九歳)の順序で殺害したのであれば、被害者らが格別の反応を示さなかったということもありえないことではないというべきである。

(九) 木小屋、杉葉束に関する供述

原告らは、「小原方に木小屋があり、その中に杉葉束があったことは、事件直後の実況見分等により捜査員の既に知っていたことであるのに、秘密性のある供述を装うため、原告一夫を誘導して、『木小屋の中に杉葉束があった。』旨の供述を得て、その後の捜査でそのことが明らかになったことにした。」と主張する。

しかし、事件直後の実況見分調査(<証拠>)には、「第一(五)」として、「被害家屋の前方は、東南方となっているが、その前方五米五〇糎のところに風呂場、及び一七米一〇糎のところに木小屋があり、小屋内には芝薪約二〇把が積み重ねてあるが、いずれも延焼していない。」という記載があるが、木小屋の中に杉葉束のあったことは記載されていない。木皿正二の一二月二六日付員面調書(<証拠>)によれば、「芝薪」と「杉葉束」が異なるものを意味していることは明らかである。そして、右実況見分を行い、原告一夫を取り調べた亀井警部は、確定第二審第一二回公判において、「前には木小屋の点は気付かずに実況見分しなかったのですが、自供後に見分したところ、『枯杉葉』(杉葉束)があり、それも自供と一致した訳です。」と証言している(<証拠>)。右証言の趣旨は、木小屋が犯行との関連性を有するとは思わなかったため、木小屋の中まで実況見分しなかったので、原告一夫の供述を得るまで木小屋に杉葉束が置かれていたことに気付かなかったというものと解される。実際、小原方の母屋と木小屋の間の距離が一七メートル余もあることからすると、犯人が放火材料を木小屋まで捜しに行ったということは、捜査員が想像しにくいことのように思われ、捜査員が木小屋に杉葉束のあることに気付かなかったとしても不自然ではないし、一方、原告一夫は、確定第二審第二回公判において、「警察官から何に火をつけたと聞かれ、初め障子につけたと答えたらいやそうではないだろうと言われ、杉葉か何かがよいと思って杉葉と言った。」と供述し(<証拠>)、捜査員の誘導があったかのような趣旨を述べる反面、杉葉束のことを言い出したのは、誘導によらず原告一夫が自ら述べたものであることを認めている。確かにその地域の農家では木小屋に杉葉束を置いていることが珍しくないとしても、これを想像によって述べうるとまでは必ずしも言えず、木小屋に杉葉束があったという供述は、秘密性のある供述と思わせるものである。

しかも、原告一夫は、木小屋に言って杉葉を発見した際の状況について、「木小屋の入口から中に入りましたが、中は真っ暗で何が置いてあったかわからなかったが、入って行くうち、足につかっとした(痛いと感じた)ので杉葉だと思って、それを持って家の中に入った。」(<証拠>)と経験者ならではと思わせる実感のある供述をしていた。

以上のとおりであるから、むしろ杉葉束に関する供述は、原告一夫の自白の信用性を肯認する一要素となりえたというべきである。

(一〇) 現場から発見された物

原告らは、実況見分の結果(<証拠>)小原方焼け跡から発見された金槌、鉈、提灯、アルミ製弁当箱、薬瓶及び千円札五枚について原告一夫の供述中に全く触れられていないのは不自然であり、捜査員がこれらについて質問しなかったのは、原告一夫が犯人ではないことを知っていたからであると主張する。

しかし、小原方焼け跡にそれらが散乱していたとしても、犯行ないし火災以前にそれらがどのような状態にあったのか明らかでないのであるから、それらが犯行と何らかの関連性を思わせるものとはいえないし、初めて入った部屋で凶行に及ぼうとしていた者が室内にあった物を殆ど記憶していないとしても、推測されるそのときの心理状態からすれば不自然とまではいえないから、原告一夫がそれらの物について供述しなかったとしても特に不自然ではなく、また、捜査員がそれらの物について質問しなかったとしても、不自然とはいえない。しかも、供述調書に記載がないからといって、捜査員がそれらの物について質問しなかったと認めることはできないのであり、質問したけれども原告一夫から格別な回答が得られなかったために調書へ記載しなかったことも考えられるのであるから、いずれにしても原告らの主張は採用できない。

なお、原告らは、右薬瓶は農薬(パラチオン)の空き瓶であったこと、そのためパラチオンによる心中、殺人の疑いもあったこと、捜査員はその入手ルート解明に不眠不休の捜査を行ったことからすると、原告一夫にこれを問い質さなかったのは一層不自然であると主張する。しかし、被害者らの頭部の創傷からすれば心中は考えられないし、原告一夫が薪割による殺害という犯行態様を供述していた際に捜査員がパラチオンによる毒殺について問い質す必要はなかったというべきであるし、右空き瓶の入手ルートの捜査は犯人検挙の手掛かりとして行われたものと考えられ、検挙された原告一夫に対し空き瓶について問い質すべき理由は特になかったというべきであるから、これを不自然ということはできない。

(一一) トラックの通過した事実に関する供述

原告らは、「原告一夫の自供により捜査した結果、事件の朝、村上重一と鳥海等の乗ったトラックが現場近くを通過した事実が判明したということになっているが、捜査員は、既に把握していた右トラック通過の事実を秘密性のある供述として利用するため、原告一夫を誘導して右供述を得、その後に村上、鳥海らの供述調書を作成したものである。」と主張する。

確かに、

① そのころ連日のように村上と鳥海が乗ったトラックが早朝船越街道を鹿島台方面に向けて運行していたのであり(<証拠>)、そのことは付近住民もよく知っていたことであるし(<証拠>)、同人らは小原方の火災の第一発見者であり、付近住民に警笛や「火事だ。」という叫びによって知らせたと認められるから、付近住民に徹底した聞込み捜査を行っていた捜査員がその事実を把握していなかったとは到底考えられない。

② しかも、原告一夫は、確定第二審第二回公判における被告人質問において、「警察官から、馬車か車に会わなかったかと聞かれたので、知らないと答えたら、時間的に何かに会わなければならない、というので、馬車に会ったといったら違うといい、どちらから来たかというので鹿島台と答えたらそれも違うというので、船越の方からトラックが来たと答えた。」と述べており(<証拠>)、捜査員が予めトラックが通過した事実を把握していたらしいことを訴えている。

③ さらに、村上は、昭和三七年一二月五日、小田島森良に対し、「松山事件発生後、二、三日してから古川署の刑事から事情聴取を受けた。また、事件発生後一週間位してから松山巡査部長派出所の安藤部長と古川署の探偵長という人から詳しく事情を聴取された。」旨を述べ(<証拠>)、原告一夫を逮捕する以前に捜査員がトラック通過の事実を把握していたらしいことを裏付けている。

以上のとおりであるから、トラックの通過した事実については、原告一夫の供述に基づき捜査した結果判明したとは到底考えにくいのであり、同原告のトラック通過に関する供述が秘密性のある供述であるとはいえない。

しかし、トラック通過の事実が原告一夫の供述により判明したということは、確定第二審第三回公判(昭和三四年三月二四日)において、原告一夫の取調べに立ち会った佐藤四郎警部が証言(<証拠>)したことであって、他に格別証拠はないが、右証言当時、取調べから既に三年余を経過していたこと、鳥海等の供述調書は一二月九日付(<証拠>)のものが、村上重一の供述調書は一二月一二日付(<証拠>)のものが最初のものとして存在しており、いずれも原告一夫のトラック通過に関する供述よりも後の日付であるため、佐藤四郎もこのことを根拠としたらしく、「聞込みで有力な情報が入るとすれば、必ず調書を取る筈ですので、聞込みではないと思います。」と証言していることからすると、同人が原告一夫からトラックに関する供述を聞く前にそのことを知っていたとしても、証言当時そのことを忘れてしまっていたとも考えられ、ことさら偽証したものと認めることはできない。また、捜査員がトラック通過の事実を予め把握していたとしても、原告一夫のトラック通過に関する供述を得る前に、村上、鳥海らの供述調書が別に存在したという証拠はなく、仮に存在したとしても、原告一夫の自供の裏付けという観点から新たに彼らの供述を録取する必要が生じたであろうから、同原告のトラック通過に関する供述を得た後に鳥海、村上から供述調書を録取したことが不自然であるということもできない。

よって、捜査員がトラック通過に関する事実を利用してことさら秘密性のある供述を創作したなどと認めることはできないのであり、原告らの主張は採用することができない。

(一二) 杉林での休憩に関する供述について

原告らは、「原告一夫は、犯行後、本件ジャンパー、ズボンを大沢堤で洗濯し、その濡れた服を着て、約二時間杉林の中で休憩していたと供述していたが、一〇月中旬の冷え込みの厳しい明け方という条件の中でそうすることが不自然であることは、捜査員にも分かったはずである。」と主張する。

しかし、一〇月一八日の最低気温(一七日九時から一八日九時までの間のもの)は、古川で摂氏14.0度、松島で摂氏13.0度あって(<証拠>。ただしこれは再審事件における証拠である。)、右杉林における最低気温も摂氏一三ないし一四度前後であったと推測され、その季節としては比較的暖かかったと認められること、ジャンパーについては直接肌に着たのではないことからすれば、濡れたジャンパー、ズボンを着て杉林の中で休憩していたという供述が不自然であるとまではいえない。

(一三) まとめ

以上述べたとおりであるから、原告一夫の供述その他の証拠によっても、捜査員が原告一夫の無実を知るべきであったということはできず、また、原告一夫を犯人に仕立てあげるような不当な捜査活動が行われたということもできない。

三請求原因4(検察官の職務執行の違法性)について

1  捜査段階における職務執行について

(一)  傷害事件による逮捕勾留について

原告らは、検察官が、警察職員による別件傷害被疑事件を理由とする原告一夫の逮捕を容認し、また、右被疑事実を理由として勾留請求したことが違法であると主張するが、この主張が認められないことは、前述二1のとおりである。

(二)  松山事件による逮捕勾留について

原告らは、「検察官が、警察職員による松山事件を理由とする原告一夫の逮捕(一二月八日)を容認し、松山事件を理由とする勾留請求(一二月一一日)、勾留期間延長請求(一二月二〇日)を行ったことは、当時の証拠状況に鑑み嫌疑のない違法な令状請求であり、これら令状に基づく原告一夫の身柄拘束もまた違法であった。」と主張し、被告国はこれを争うので、検討する。

(1) 逮捕勾留の理由について

原告一夫は一二月六日に松山事件を自白し、一二月一六日からは否認するに至ったが、前述二の2及び3のように、自白前及び自白中の取調べの方法態様には、自白の任意性を疑わせるような事情は認められず、自白するに至った状況も自然であり、同房の高橋による自白の示唆があったことは認められるものの、その影響により自白したとは考えにくく、仮にその影響により自白したものであるとしても、原告一夫が虚偽の自白をするような状況とは認め難かったというべきである。

また、自白の内容は、やや不自然な変遷なども認められるものの、犯行の動機、犯行現場への往復経路、犯行状況などを具体的に供述しており、他の証拠から客観的に認められる事実におおむね符合していたのであるから、一応信用性も否定し得なかったというべきである。

しかも、原告一夫は、松山事件の検察官による弁解録取(一〇月八日)に際して、検察官から「東京で事件のことを思い出さなかったか。」と問われたのに対し、「肉屋に勤めていたとき、牛豚の血を見て事件を思い出し、眠れなかった。」と言っていたことが認められる(<証拠>)。

以上のような自白の状況に鑑みれば、原告一夫には「罪を犯したと疑うに足りる相当の理由」があったというべきであり、松山事件による逮捕勾留が違法であったということはできない。

(2) 勾留延長の理由について

検察官が勾留延長を請求した当時、襟当血痕に関する三木鑑定の結果は出ておらず、また、アリバイ、動機、自白の裏付け等に関してさらに多数の関係者の取調べを行う必要があり、起訴不起訴の判断を行うためには、なお捜査を遂行する必要があったと認められるから、勾留延長にはやむを得ない理由があったということができ、これが違法であったということはできない。

(3) なお、平塚薪割鑑定の結果は右逮捕勾留以前に、平塚着衣鑑定及び平塚掛布団鑑定の結果は右勾留中に出ており、いずれも検察官にその内容が報告され、原告一夫の有罪立証に役立たないものであることが判明していたと考えられるが、他において述べるとおりこれらは右自白から認められる嫌疑を覆すものとはいえない。

(4) 以上のとおりであるから、原告一夫に対する松山事件による逮捕勾留ないし勾留延長に関する検察官の職務の執行が違法であったということはできない。

2  公訴の提起について

原告らは、「検察官による松山事件の起訴は、有罪判決を期待しうる合理的根拠のない違法なものであった。」と主張し、被告国はこれを争うので、この点について次に当時の証拠状況から検討する。

(一)  アリバイについて

前述二6(一)のとおり、原告一夫にアリバイがあったということはできず、むしろアリバイ主張を変転させた末に自白したことは、自白に至った状況として自然であるということができる。

(二)  動機について

原告一夫の動機に関する供述が客観的な証拠に矛盾していなかったことは前述二6(二)のとおりであり、被害者らに対する殺意を生じた経緯に関する供述についてはやや特異な印象を否定できないものの、検察官が原告一夫に松山事件の動機がないと判断すべきであったということはできない。

なお、原告一夫は、否認した後の一二月二九日付検面調書(<証拠>)において、「飲食店『二葉』の女給である渡辺夏子と結婚したいと考えており、母にそのことを話したが賛成を得られず、家出してでも一緒になろうと考えたこともあった。夏子は『二葉』に前借金債務があった。」と述べており、この供述は、二葉の経営者菅野重雄の供述(<証拠>)、友人金澤、加藤の各供述(<証拠>)により裏付けられたため、検察官は、原告一夫が夏子の前借金の返済資金を必要としていたと判断し、これをも松山事件の動機に結び付けたことが認められる(確定第一審における冒頭陳述書・<証拠>)。

右原告一夫の渡辺夏子に関する供述は、犯行の動機として述べられたものではないから、これを犯行の動機に結び付けたことは検察官の推測の域を出ないものであるが、原告一夫が金銭を必要としていた情況証拠の一つとしてであれば、関連性がないとはいえず、検察官の判断が不合理であったということはできない。

(三)  平塚着衣鑑定の評価

前述二4(三)のとおり、平塚着衣鑑定の前提となる事件当夜の原告一夫の着衣が本件ジャンパー、ズボンであったか否かという問題について検討する上で、原告一夫の着衣に関する供述が自白の前後を通じてほぼ一貫しているらしい点はやや不自然な印象があるものの、本件ジャンパー、ズボンが原告一夫の事件当夜の着衣ではなかった可能性を否定できないから、検察官が平塚着衣鑑定の結果等から原告一夫の無実を知るべきであったということはできず、また前述二4(四)のとおり、洗濯による影響の可能性について鑑定しなかったことも違法とはいえない。

(四)  三木鑑定の評価

原告らは、検察官が当時三木鑑定の結果についてその見通しについての簡単な電話連絡を受けていただけで起訴したことが適正でないと主張する。

しかし、一般に、鑑定書の作成が起訴前の勾留期間の満了までにまにあわない場合には、検察官が鑑定人から鑑定結果の骨子について電話等による口頭連絡を受け、後日鑑定書を公判に提出できる見込のもとに被疑者を起訴することもやむを得ないというべきであり、これが違法であるとはいえない。

ところで、右電話連絡の内容は、昭和三〇年一二月二六日午後一時三〇分付電話聴取書(<証拠>)によれば、「甲野一夫が使用せる布団に付着せる血液については目下鑑定中なるも結果の見通しについては左の通りの見込みであります。容疑者甲野一夫のものではない。被害者四名の血液なりと見るも矛盾しない。」というものであったが、証人三木の証言によれば、右結論はABO式血液型判定の結果得られたものであると考えられ、右電話連絡の意味の重要性から考えて、その際三木は、襟当血痕の血液型及び原告一夫と被害者らの血液型についてまで言及した可能性が高い。右電話連絡を受けた後、検察官は直ちに原告一夫の家族の血液型について鑑定を求める手続を取り(<証拠>)、原告一夫の家族の血液は一二月二九日に採取され(<証拠>)、直ちに三木のもとに届けられた(<証拠>)のであるから、血液型判定が短時日で行えることからすると、検察官は家族の血液型まで知った上で公訴を提起した可能性が高い。

右三木鑑定及び血液型判定の結果によれば、掛布団襟当の血痕はA型反応を示す人血であり、原告一夫の血液はB型、同原告の家族はB又はO型のいずれか、小原忠兵衛はO型、他の被害者三人はいずれもA型であったから(<証拠>)、原告一夫の「犯行により返り血を浴びたので、顔と手を大沢堤で洗ったが、髪の毛は洗わなかった。帰宅して敷いてあった布団にもぐりこんだ。」という供述及び他にA型血液の付着原因として証拠上考えられるものがないことと併せ考え、検察官が襟当の血痕は原告一夫の頭髪に付着した被害者の返り血が二次的ないし三次的に付着したものであると判断したことが不合理であったとはいえない。

なお、原告らは、検察官は捜査員による襟当血痕の偽造の疑いを知るべきであったと主張し、また本件掛布団は弟彰の使用していたものである旨主張するが、当時の証拠状況からすると、襟当血痕の偽造は疑うべくもなく、本件掛布団は事件当時原告一夫の使用していたものと認められることは前述5のとおりである。

(五)  荒井丹羽口鑑定の評価

荒井丹羽口鑑定によれば、本件薪割の刃の表面に残る条痕は、毛髪が血液によって粘着された後に摂氏三〇〇度ないし三五〇度の加熱を受けたものに酷似するという結果が出ていた(<証拠>)。原告らは、本件薪割に加わった温度について科学的裏付けがなかったのであるから、右鑑定によっても薪割が凶器である旨の原告一夫の自白が裏付けられたとはいえなかったと主張する。

しかし、

① 薪割の刃にそのような条痕が存在するということは異例のことであり、また毛髪が付着していた場合以外にそのような条痕が生じる原因は他に考えにくいのであるから、荒井丹羽口鑑定の結果は、加熱温度の厳密な裏付けの有無にかかわらず、本件薪割が凶器として用いられた蓋然性が高いことを認めるに足りるものであったこと、

② 薪割が凶器である蓋然性の高いことは、薪割の発見された場所(子供達二人の死体の間)及び被害者らの死体頭部の創傷の形状等からも認められたこと、

③ 現実に小原方火災において本件薪割が受けた加熱温度、加熱時間その他の諸条件を明確にすることにはかなりの困難を伴うものと思われ、このことについて別に鑑定を行い、荒井丹羽口鑑定の結果との相関関係を明らかにしようとしたとしても、いくつかの仮定を伴う鑑定結果となることは必定であり、それが証拠価値の高いものとなるとは予想し難かったと思われることから、本件薪割に加わった温度等諸条件について鑑定を行うことが有益であったといえるとしても、これを検察官が行うべきであったとまでいうことはできない。

もっとも、原告らの主張するように、捜査官は、原告一夫が自白する以前から、右②の事実などから本件薪割が凶器として最も可能性が高いと考えていたと思われるので、薪割が凶器であるという自白が秘密性のある供述であるということはできない。

(六)  自白の内容の評価

(1) 鹿島台駅を下車してからの行動に関する供述

原告一夫は、一二月七日、①六日の自白には触れられていない「鹿島台駅を降りた後、すぐ裏町の金山という飲食店に入って焼酎四、五杯と焼鳥を飲食したと思う。午後一一時ころそこを出て、家に帰る途中、小原方で金を取ろうと決心した。」旨を供述していた(<証拠>)。ところが、翌八日には、②金山で飲食したという右供述が誤りであったと述べて撤回し、鹿島台駅からの帰宅途中に犯行を思い立ち、後述のとおり瓦工場において休憩した旨を供述し(<証拠>)、一二月一二日には、③「駅から瓦工場へ行く途中、裏町の金山さんに寄ったような気もするし、寄らないような気もする。」という曖昧な供述をした(<証拠>)。①から②への供述の変遷が生じたのは、①の「金山」で飲食したという供述が同店経営者金成一の「一〇月一七日の晩は原告一夫が来たような覚えはない。」という一二月六日付員面調書(<証拠>)に矛盾することが判明したために捜査員から追及を受けたためではないかという疑いがないではなく、その疑いはさておき、①ないし③のように犯行前の行動について曖昧な供述をしていることは、真犯人の供述としては些か不自然であることは否定できない。

しかし、「金山」で飲食した事実は、原告一夫は自白する以前にもアリバイとして供述していたことであり(<証拠>)、自白した後もアリバイが成立しまいかという期待からこのことにこだわっていたという見方もできないではなく、また、一七日晩、自宅へ向かう途中で小原方へ盗みに入ろうと思い立ったというのであるから、(<証拠>)、そうだとすれば、「金山」に立ち寄ったかどうかは、犯行を思い立つ以前のことということができ、四〇日以上が経過した後にその記憶が曖昧であったとしても著しく不自然とまでいうことはできない。

(2) 瓦工場での休憩に関する供述

原告一夫は、事件当夜、犯行を思い立った後、小原方へ行く途中、瓦工場の窯の中で休憩したと供述していた(一二月八日付員面調書・<証拠>、一二月一一日付検面調書・<証拠>)。

しかし、瓦工場は原告一夫の住居の近くにあり(<証拠>によれば、距離は約二七五メートルである。)、その窯の中は同原告が近所の子供達と隠れんぼをして遊んだりしたことのある場所であるから(<証拠>)、同原告が想像によっても述べることができたことといえる。

また、右供述によれば、同原告はそこで犯行に適当な時刻を待つために三時間余も休憩していたというのであるから、その間の心理状態や動静について何らかの具体的な言及があって然るべきと思われるのに、ただ「藁の上に腰掛けたり仰向けになったりして暫く休みました。」というだけの供述にとどまっており、やや供述が簡単に過ぎる印象がある。

しかも、原告一夫は当初の自白では「瓦工場の前を通って」小原方に行ったと供述していた(<証拠>)。瓦工場で休憩した目的が前述のとおりであるとすると、そこで休憩した事実は、犯行との関連性が乏しいとはいえないから、少なくとも「瓦工場の前を通って」と供述した際にはこれを思い出すことができたはずであり、犯行全体について自白しながらことさらそれだけを秘匿するような事実でもない。後に原告一夫は、確定第二審第二回公判における被告人質問において、右供述の変遷の理由について、「鹿島台駅を降りてから犯行までの時間が合わないと警察官から言われたので、そこで休憩していたことにした。」と述べた(<証拠>)。確かに鹿島台駅を降りたのが一〇月一七日午後一〇時過ぎであり、小原方の火災発生が翌一八日午前三時半過ぎであること、鹿島台駅から小原方へ行き犯行を終えるまで二時間とかからないはず(<証拠>によれば、鹿島台駅から小原方まで普通歩行で三一分、緩慢歩行でも四六分半しかかからない。)であることからすると、当初の自白によれば三時間余の時間的空白の生じることに捜査員はすぐに気付いたと思われ、この矛盾を追及したであろうことは想像に難くない。

以上のとおりであるから、瓦工場での休憩の事実は、時間的矛盾の追及を受けた原告一夫がつじつまを合わせるために創作したものである可能性を否定できない。

しかしながら、右休憩の事実自体は、捜査員の誘導しえないことであって、原告一夫が自ら述べたことと思わせるし、また、瓦工場の窯の中は、犯罪を思い立った者が隠れているのに好適な場所であることからすると、この供述は経験者としての供述ではないかと思わせるものがある。また、重大事件の犯人であっても、時間の経過により部分的に記憶が曖昧となったり、記憶があっても当該事実の捜査する上での重要性を意識していなかったり、投げやりな気持ちで自白したような場合には、ことさら虚偽を述べる意図ではなしに前後相矛盾する供述をしたり、供述が具体性を欠くものとなることは格別珍しいことではないのであるから、右のような供述の変遷等を捉えてただちに原告一夫の嫌疑を否定すべきであったということはできないというべきである。

(3) 割山の山道に関する供述

原告一夫は、犯行現場までの往復経路について、船越街道の割山の手前から登って行く細い山道を通行したと供述していた。

しかし、原告一夫は移動製材の仕事などで小原方のある新田部落へ行く際には、大抵この山道を通っていたというのであるから(<証拠>)、むしろ、この道は原告一夫が小原方へ行く道として最初に思い付くであろう道ということができ、右供述は想像によっても述べることができ、秘密性のある供述ではないというべきである。

けれども、この道は、その存在について捜査員が気付いていたとは考えにくい道であることから、原告一夫の供述によって明らかとなった可能性が高く、しかも、この道は、新田部落の奥に位置する小原方へ人と出会わずに行くために好適な道とも思われ、右供述は現実の経験に基づく供述のように思わせるものであるということができる。

(4) 小原方の内部の状況に関する供述

このことについて原告一夫は、玄関の戸に施錠のなかったこと、玄関土間の左側に岩竈のあったこと、六畳間に切炉があったこと、電灯は一灯だけで六畳間と八畳間のあいだの六畳間側に吊してあったこと、障子が破れていたこと等を供述していたが、これらの事実は捜査員が実況見分(<証拠>)及び小原優子の供述(<証拠>)等により把握していたであろう限度を出ないものであり、秘密性のある供述とはいえない。

なお、自在鉤が六畳間の切炉の上に掛かっていた事実は、前述二6(六)のとおり、原告一夫の自供により初めて明らかになったことである可能性があるが、当時の農家の切炉の上には自在鉤があることが通例であったと思われることから、これも特に秘密性のある供述ということはできない。

むしろ、小原方の八畳間の畳は剥されて六畳間北西側壁に立て掛けてあったことが認められる(<証拠>)ところ、原告一夫の供述では、「座敷のほうは畳が敷いてあったか敷いてなかったかはっきりしない。」というのであり(<証拠>)、自白中の他の供述部分によれば、その八畳間で寝ていた四人を殺害し、箪笥を物色し、杉葉や木屑を持ち込んで放火したというのであって、同人はその間裸足で何度も八畳間に出たり入ったりしていたというのであるから(<証拠>)、右供述は些か不自然というべきである。

しかしながら、原告一夫は、以前に小原方を訪問したことは一度もないというのであるから、松山事件に関する新聞記事を読んで多少の予備知識があり、また、捜査員の誘導が部分的にあった可能性のあることを考慮しても、小原方内部の状況を特に矛盾なく供述できたということは、自白の信用性を肯認する方向に働く一要素となりうるというべきである。また、八畳間に畳が敷いてなかったことは証拠上ほぼ間違いのない事実なのであるから、原告一夫が畳の有無に関して右のような供述をしていることは、かえって捜査員が強力な誘導を行なっていなかったことを窺わせるということもでき、他の小原方内部の状況に関する供述部分も、誘導によらず同原告が自発的に述べたものではないかと思わせるものである。

なお、昭和三〇年一〇月一八日の実況見分の結果、現場から発見された湯釜、金槌、提灯、アルミ製弁当、薬瓶、千円札五枚については、いずれも自白中には何ら触れられていないが、前述二6(一〇)のようにこれらの物を犯行と何らかの関連性があると考えるのは早計であるし、これらを特に犯人が記憶にとどめて供述すべきものということもできないから、原告一夫の供述がこれらの物について触れていないことが特に不自然であるということはできない。

(5) 薪割の置いてあった場所に関する供述

このことについて原告一夫は、

① 最初に自白した昭和三〇年一二月六日「殺す刃物がないかと六畳間を探したところ、玄関のところに置いてある岩竈の後ろの土間の所に柄だけ見えた物があるので、引き出して見ると柄の長さ三尺位のまさかり(薪割)であった。」と供述していたが(<証拠>)、

② 次に、一二月七日、「岩竈のうしろの縁側の続きの板の間の所に置いてあったのを持ち出した。」と述べ(<証拠>)、

③ 次に、一二月九日、実況見分に立ち会った際には、「六畳板の間の縁側寄りの所である。」と指示説明し(<証拠>)、

④ 最後に、右同日の実況見分の後、「まさかりの置いてあったのは岩竈のうしろ側であったと話したが、本当は風呂場の前の壁に柄を上にして立てかけてあった。」と述べている(<証拠>)。

原告一夫は薪割が凶器であると当初から供述しており、このことは荒井丹羽口鑑定の結果や、被害者四名の死体頭部に残る創傷からも裏付けられるといえるところ、凶器がどこにあったかについては、犯人であれば通常忘れることではないと思われるし、覚えていながらことさら秘匿するようなことでもない。しかも、②の供述は、小原方の構造を知らない者の供述のようであり(乙第一号証の三添付見取図二によれば、玄関と縁側のあいだには壁があったと認められる。)、また、④への供述の変遷の理由について自白調書は何も述べておらず、同見取図一によれば母屋から風呂場まで五メートル五〇センチ離れていることをも考えると、この供述の変遷が不自然な印象のあることは否定できない。しかし、犯人が、興奮状態にあった犯行時の行動を逐一正確に記憶していることのほうが不自然という見方もできること、犯行全体について自白しても、当初から真実をありのままに述べるとは限らないことからすると、右供述の変遷を根拠として原告一夫の嫌疑を否定するわけにはいかなかったというべきである。

(6) 被害者らの寝ていた順序等に関する供述

被害者の寝ていた順序に関する原告一夫の供述については、死体の発見された場所から推測される寝ていた順序に一致しており、死体の発見された場所は新聞記事にもなったことがあるというのであるから、秘密性のある供述とはいえない。しかし、この供述は、捜査員の誘導によらず述べたものであることを原告一夫自身認めているところであり、事件直後の新聞記事を取調べ当時も記憶していたとすれば意外の感は否定できないし、想像による供述がたまたま真実に一致したということも考えにくいのであるから、右供述は、供述全体の信用性を肯認する方向に働く真実ということができる。

なお、被害者らの寝ていた顔の向き、加害部位に関する供述が誘導による供述ではないかと思わせること、被害者らの反応に関する供述が具体性を欠き、犯行時の印象、感情に関する供述がないことが些か不自然であることは前述二6(七)及び(八)のとおりであるが、それらが原告一夫の嫌疑を必ずしも否定する要素となりえないことも、そこで述べたとおりである。

(7) 被害者の頭部に何か掛けたという供述

原告一夫の自白(<証拠>)によれば、同原告は忠兵衛らを殺害した後、押入から何か布を出して忠兵衛夫婦の顔に掛けたというのであるが、これは忠兵衛夫婦の焼死体の頭部、顔面を「黒く焦げた布様のものが覆う」という村上次男、三木敏行による各死体鑑定の結果(<証拠>)と符号するものである。

しかし、右自白を得た当時、一〇月一八日付実況見分調書(<証拠>)の記載から明らかなように、捜査員は死体頭部に厚手の布片が付着していたことは知っていたが、それが何であるかまでは分からなかったのであり、右自白は、あたかもこうした捜査員の認識に符号するかのように「かけたような覚えもありますが、その物がなんだったかまったく見当つきません。」という供述にとどまっている。このことは、経験者の供述としては些か曖昧というべきで、捜査員による誘導があったのではないかと思わせるものである。

けれども、原告一夫の供述によれば「被害者らの死に顔を見たくないために、押入にあった布を掛けた。」というのであるから、いわばこれは犯行時の興奮状態における反射的な行動であって、その掛けた布が何であったか記憶していないということもあながち不自然とはいえない。

(8) 放火材料に関する供述

原告一夫は、放火の材料について、木小屋から持ってきた杉葉束と玄関近くにあった箱に入った木屑とを放火材料にしたと供述していた(一二月八日付員面調書・<証拠>、一二月一一日付検面調書・<証拠>)。

前述二6(九)のように、木小屋に杉葉束があっという供述は秘密性のある供述である可能性が高いということができる。

しかし、木屑が放火材料に使用された可能性のあることは、忠兵衛の死体の頭部付近に炭片が多数存在し(一〇月一八日付実況見分調書)、これが薪木よりやや太い杉材様の物が燃えて炭化したものであると認められたこと(佐藤孝治作成の一一月二九日付鑑定書・<証拠>)、大窪留蔵は小原方に木屑があったことを供述していたこと(一〇月二〇日付員面調書・<証拠>)から、予め捜査員が知り得たということができる。

ところが、原告一夫の当初の供述では、杉葉束を放火材料にしたと述べているにとどまり(一二月六日付、同七日付各員面調書)、木屑については、一二月八日に、「杉葉だけではボッボッと燃えて仕舞って消えては困ると考え、何かほかのものを持って来ようとして外に出たら箱があったので、それを持って来たわけですが、最初その箱には何も入っていなかったと思って持ち上げたら、その中には木屑の材木屑が半分以上入っておりました。」と初めて供述したのであり(同日付員面調書)、放火犯人が放火材料を忘れるとは考えにくいことからすると、この供述の変遷はやや不自然に感じられないでもなく、右供述の変遷は、右佐藤孝治鑑定書の「薪木よりやや太い杉材様の物」という記載に影響を受け、捜査員が原告一夫を誘導したために生じたのではないかという疑いがある。

もっとも、取調べに対する被疑者の姿勢如何では、経験に基づく供述であっても右のような変遷がありえないではないし、右供述は相当具体的であることからすると、必ずしも検察官が右供述の信用性を疑うべきであったとはいえない。

(9) 放火場所に関する供述

原告一夫は、自白の当初、放火材料である杉葉束を置き放火した場所について、六畳間と八畳間のあいだの障子のところ、特に「六畳間側で男の子の頭のあたりに(杉葉束を)置いてマッチで火をつけた。」と供述していたが(一二月六日付、同月七日付各員面調書)、同月八日には、「忠兵衛と奥さんの頭に近いところに奥さんの体に添うように(杉葉束を)置いた。」と、これが八畳間側であると供述を変えた。このような供述の変遷は経験者の供述として些か不自然であり、供述を変更するに際して、供述調書は「前に述べたのは嘘」というのみで理由を特に述べていない。永瀬章による鑑定の結果によれば、発火場所は「八畳間の隣室との間仕切障子に近い部分と推定する。」というのであり(<証拠>)、その鑑定書は昭和三一年四月二七日付であって、右各供述当時、捜査員が右鑑定結果を把握していた証拠はないが、右鑑定結果はその根拠として六畳間よりも八畳間のほうが全体に焼損が激しいことを挙げており、実況見分を行なった捜査員もこの事実を把握していた可能性がある。すると、右供述の変遷は、捜査員による誘導の結果生じたものである可能性がないではないというべきである。

けれども、放火場所が「六畳間と八畳間のあいだ」であり、被害者らの頭に近いところという点では、右供述は一貫していることからすると、右各供述の変遷は、さほど意味のある変遷とはいえないという見方も可能であり、検察官が右供述の変遷を特に不自然と判断すべきであったとはいえない。

(10) 出火を確認するまでの時間に関する供述

原告一夫は、当初の自白(一二月六日付員面調書)では、「放火してから外に出たが、果たして燃え上がるかどうか見届けようと思って、忠兵衛さんのところの坂道を下った道路のところに立って約二〇分位見て、煙が外に出て来たので」と供述していたが、二〇分も外に立っていたというのは放火犯人としては不自然な行動であるばかりでなく、点火後二ないし四分で戸外から火が見える状態になるという永瀬章による鑑定の結果(<証拠>)にも一致しないこととなる。翌七日付員面調書では、「道路に立っていたのは精々一、二分であった」旨に供述を変更したが、この変更の理由について原告一夫は何ら述べておらず、捜査員の指摘による供述の変遷ではないかと思わせないではない。しかし、捜査員が不自然な供述部分を被害者に問い質すことは当然のことであり、一般に時間に関する記憶、供述が極めて不正確であることをも考慮するならば、この供述の変遷をもって特に不自然ということはできない。

(11) 返り血の付着した程度に関する供述

原告一夫は、自白の当初、「血痕は案外つかないようで、ズボンは前側に、ジャンパーも同様前側についた。」(一二月六日付員面調書)と供述していたが、翌七日には、「両手がズボンに触ったら、ヌラヌラしたので、ズボンに血がいっぱいついていたと感じた。」(同日付員面調書)と供述を変え、以後この趣旨の供述を維持した。この供述の変更の理由について自白調書は特に述べていない。

しかし、血液が「案外つかないようで」という供述と「いっぱいついていたと感じた」という供述とが明らかに矛盾するとまではいえず、同一事実であっても説明の仕方如何によってはは、この程度のニュアンスが生じることはありえないことではない。また、犯行後、暗闇の中での手触りで血液の付着の程度を意識したのであるとすれば、原告一夫はその後着衣を洗濯し帰宅するまで暗闇の中にいたと供述していたのであるから、返り血の付着した程度についてあまり正確な認識はなかったと考えるべきであり、右各供述相互の差異を特に重視することはできなかったと考えられる。

(12) 大沢堤で着衣の血痕を洗い落したという供述

原告一夫は、自白していた間、犯行の帰途、大沢堤で着衣を洗濯したと一貫して供述していた。

思うに、犯行により返り血を浴びたとするなら、その返り血が付着したままでは帰宅しにくいことは捜査員の指摘の有無に関わらず分かることがあるし、小原方からの帰路の途中に大沢堤があることは、土地勘のある原告一夫のよく知っていたことでもある。すると、原告一夫が着衣を洗濯したということも、その場所として大沢堤を思い付くことも、想像によって述べうる範囲を出ないということができる。

しかし、右大沢堤における洗濯に関する供述は、性質上捜査員の誘導によるものとは考えにくく、原告一夫の自発的な供述によらなければ判明しなかったであろうことということができ、経験に基づく供述ではないかと思わせるものである。なお、原告らは洗濯の様子について供述が具体性を欠くと主張するが、「土を混ぜてゴシゴシ洗った」という供述は必ずしも具体性を欠くものとはいえない。

(13) トラックの通過した事実等に関する供述

原告一夫は、当初の自白(一二月六日付員面調書)を除き、小原方に放火してから逃走する途中、割山の大きな道(船越街道)に出る頃に半鐘の鳴るのを聞いたこと、大沢堤で洗濯した際トラックの走り来る音を聞き、杉林へ逃げ込んだこと、杉林に入って間もなく消防のサイレンが鳴るのを聞いたことを供述していた。

しかし、トラック通過の事実については、原告一夫の供述に基づき捜査した結果判明したとは考えにくいことは前述二(一一)のとおりであるし、半鐘やサイレンの鳴ったことも、付近住民に対する徹底的な聞込みを行っていた捜査員が予め把握していた可能性が高く、捜査員による誘導の可能な事実であったというべきであり、秘密性のある供述であるとはいえない。むしろ、原告一夫は、トラックの接近する音を聞いて杉林の中に逃げ込んだというのであるから、トラックの通過は印象に残る出来事であると思われるが、当初の自白(一二月六日付員面調書)ではこのことに触れていない。

けれども、右供述は、トラックが大沢堤付近を通過したと推定される時刻、半鐘、サイレンがそれぞれ鳴ったと推定される時刻と矛盾を生じなかったのであるから、検察官が供述の信用性について疑念を抱くべきであったということはできないし、当初の自白でトラック通過の事実に触れていないことも、これが必ずしも進んで供述すべき事実であつたとはいえないことから、特に不自然であるとはいえない。

(14) 杉林での休憩に関する供述

このことについても、土地勘のある原告一夫としては、経験によらなくても述べることができたということができる。むしろ、この供述は、一家四人を殺害した結果、何も得ることなく逃走した後、二時間近くを暗闇の杉林の中で休憩したというのであるから、悔悟の念や犯行に引き続く興奮状態、自己の犯行であることが発覚しないかという不安等の心理状態について何らかの言及があって然るべきと思われるが、「じっと下を見つめていた。」というだけでその内容は具体性に欠けている。

しかし、捜査員の質問の仕方、被害者の供述態度の如何によっては、自白調書にこのような具体性を欠く供述部分が生じることはありうることであり、特にこれが犯行後の行動であり、裏付証拠の得にくいことがらでもあるため、捜査員がさして関心を持たず、詳しく問い質さなかったことも考えられるから、この供述が特に不自然ということはできない。むしろ杉林で休憩していたという事実は、捜査員が誘導しうる事実とは思われず、現実の経験に基づく供述ではないかと思わせるものであることは否定できない。

なお、前述二6(一二)のとおり、事件当夜は、一〇月としては比較的暖かな晩であったから、そこで休憩していたということがありえないことであるとはいえない。

(15) 帰宅後着衣を置いた場所に関する供述

原告一夫は、杉林から帰宅した後ジャンパー、ズボンを置いた場所について、

① 一二月七日には「(自宅の)縁側の竿にかけた。」と供述していたが(<証拠>)、

② 一二月八日、「(自宅の)ひき屑小屋にあった竿にかけて干した。」と供述を変え(<証拠>)、

③ 更に一二月一〇日には、「ひき屑小屋のひき屑の上の北隅に丸めて置いた。」と供述を変え(<証拠>)、

このような供述の変遷は、①が兄嫁美代子の「一〇月一八日朝、縁側の竿には何も干してなかった。」という供述(一二月八日付員面調書・<証拠>)に一致しなかったこと、②が兄常雄の「ひき屑小屋の梁にきうり竹を渡していたのは昭和二九年の六月ころまでのことで、それ以後は渡したことはない。三〇年七、八月頃からおが屑を入れ始め、一〇月一七、一八日頃までにはほとんど一杯入れた。」という供述(一二月一〇日付員面調書<証拠>)に一致しなかったことから、それぞれについて捜査員が原告一夫を追及したためであると推測される。

犯行当時の着衣は決定的な物証となりうるものであることからすると、原告一夫がそれをどこに置いたか記憶していなかったとは考えられず、このように供述に変遷のあることは、不自然というべきである。しかし、他面、前述二4(三)(3)のように着衣が犯行の決定的な物証となりうるがゆえにこのことについて同原告が真実を述べようとせず、その場凌ぎの供述に終始していたという評価もあながち不合理とまではいえず、検察官が供述全体の信用性を否定すべきであったということはできない。

(16) 事件当夜の天候についての供述

原告らは、事件当夜相当量の降雨があったはずであるのに、原告一夫の供述はこれに触れておらず不自然であるという。

原告一夫は、当夜の天候について、「曇っていたが、雨は降っていなかった。」と供述し、また、検察官からの照会に対する石巻測候所長の回答(<証拠>)によれば、昭和三〇年一〇月一七日から一八日の晩の天候は、「曇」というものである。ただし、右照会も回答も対象地域を特定していないから、石巻における当夜の天候と見るべきであり、必ずしも松山町におけるそれを明らかにしたものということはできない。

ところで、奥寺剛の一二月二三日付検面調書(<証拠>)によれば、同人は、「一〇月一七日の晩、鹿島台町裏町のカフェー『ヨカロー』で、酔って寝てしまい、女給に午前一時とか言われて起こされて外へ出ると、雨が少し降っていたので、女給からビニール風呂敷を貸そうと言われたが、初めて来た店で物を借りるのは気が引けるので借りずに帰った。」というのであり(これは後に斎藤礼子の確定第一審での供述・<証拠>によりおおむね裏付けられている。)、その晩鹿島台町には若干量の降雨があった可能性が認められる。

しかし、その夜に雨が降ったことについては、小原方の火災に集まった人々の供述中には、鎮火後に行われた実況見分の調書中には、深夜犬のうなり声に目覚めて家の外へ出て見たという佐々木立平の供述調書(<証拠>)の中にも、まったく触れられていない。すると奥寺が「ヨカロー」を出た時に降っていたという雨は通り雨であった可能性もあるし、松山町の小原方周辺には降らなかったことも考えられるのであり、そうだとすれば、犯行前後、小原方周辺の地表や草木は濡れていなかったことも考えられるから、降雨の事実が原告一夫の供述中に出てこないことが不自然であるとはいえない。

(七)  自白の態度

(1) その他の供述

原告一夫は、一二月一〇日付員面調書(<証拠>)において、「事件のことについて初めから本当のことを言えなかったのは、事件を思い出すのがむつかなかった(恐ろしかった)ことと、自分ではないと思わせるため、嘘を言っておりましたが、自分でやったことは隠せないので、しっかり本当のことを申し上げました。」と供述し、また、一二月一五日付員面調書(<証拠>)において、「私はこれまでいろいろと嘘を申し上げた事もありますが、それは本当に嘘をつくつもりで申し上げたわけではなく、忠平衛さんの一家を殺して火をつけた事は何回も申し上げた通り間違いありませんが、細かい事になると物忘れをするのであります。物忘れするようになったのは、五、六年前頃から蓄膿症の気味で」あることが原因であると述べていることが認められる。これらは、前述のような自白中に認められる不自然と思われる供述の変遷や、経験者としてはやや具体性を欠く供述、曖昧な供述について一応の理由を与えるものであり、原告一夫の嫌疑を深めさせたものということができる。

(2) 実況見分時の態度

昭和三〇年一二月九日に小原方焼け跡において実施された実況見分を録画したものと認められる一六ミリフィルムを映写した当裁判所における検証の結果によれば、原告一夫は、右実況見分に際し、被害者四名を次々に殺害し、箪笥のひきだしを開けて金員を物色し、木小屋から杉葉束を、玄関近くから木屑の入った木箱を持ってきてマッチで放火した様子をそれぞれ動作で再現し、その後、大沢堤のほとりにおいて長靴で水に入って着衣を洗濯した場所を指示説明し、また、杉林の中で休憩していた様子を再現したことが認められる。これら一連の行為は、一面、自白調書をそのまま動作で再現したにとどまるものと評価しえないではないが、他面、原告一夫が無実であることを前提とした場合には、これら一連の行為に際しての同原告の心理状態をどのように理解すべきであるかは些か困難な問題であり、起訴に先立ち否認に転じていた原告一夫が、このことについて納得のゆく説明を検察官に対して行った形跡はないのであるから、これら一連の行為は同原告の嫌疑を深めさせたものというべきである。

(3) 夜間検証時の態度

原告一夫は、一二月一三日に実施された検察官による夜間検証に立ち会い、小原方の木小屋で放火材料にしたという杉葉束のあった位置を指示した際、木小屋内に立て掛けてあった稲杭を指示して、「この稲杭にぶつかった記憶がないので、多分あの晩この稲杭はこの位置に立て掛けてなかったのではないかと思います。」と述べた(<証拠>)。その後、この稲杭は、木小屋の梁の上に載せてあった二〇本程の稲杭のうちの一つで、事件直後に被害者の死体の解剖台を作るに用いられた後、一本だけ梁に上げずにそこに立て掛けておかれたものであることが判明し(木皿正二の一二月二六日付員面調書・<証拠>)、同原告の右供述が裏付けられた。同原告は一二月九日の警察による実況見分に際しても右木小屋に入ったことのあることが認められるものの、この杭は予め捜査員が着目して話題にするような性質のものではないから、同原告にはその稲杭が事件の晩にそこに存在しなかったことを知る機会はなかったと考えられ、適当に述べたことが偶然客観的事実に合致したとも考えにくいから、右供述は真犯人でなければ述べ得ない供述であると思わせるものであったというべきである。

また、右夜間検証に際し、原告一夫は、「あの晩あそこから此処まで来る途中(小原方に至る山道の途中)で躓いた。」とか、「あの晩はもっと暗かったと思う。」とか、「帰る途中、山道と割山の県道の中間位に行った時に振り返ると忠兵衛方の上空が赤くなっていた。」などと、あたかも経験に基づくかのような言葉を検察官に聞かせている。そして、事件当夜が夜間検証の晩よりも暗かったことは、後に一二月一六日付石巻測候所長からの回答(<証拠>)により裏付けられたのであり、原告一夫が振り返ったと供述した地点までの歩行時間(約三分)と放火後右地点で上空が赤く見えるようになるまでの所要時間とが矛盾しないことは、後に永瀬章による鑑定の結果(<証拠>)により裏付けられている(なお、右永瀬鑑定は、<証拠>によれば一二月二七日付で嘱託されているが、永瀬鑑定人はその日のうちに小原方の焼け残り状況の調査をしていることが同鑑定書添付写真の作成日付から認められ、かつその後の鑑定作業が性質上比較的短時間で終了したであろうことからすると、検察官は起訴以前に同鑑定の結果の概要について連絡を受けていた可能性が高い。)。

右夜間検証は、原告一夫の供述等の任意性を確保するため、同原告の取調べに当たった警察職員を同行させずに行われたものであり(<証拠>)、その結果、同原告から右のとおり秘密性があると思われる供述等が得られたのであるから、検察官が、原告一夫が犯人であるとの心証を深めた(右同証言)としても無理からぬことというべきである。

(八)  自白撤回時の態度

原告一夫は、一二月一五日晩にいわゆる否認の手記を作成し、翌一六日朝これを亀井警部に提出したが、前述のとおり、右手記の内容は、虚偽の自白をした動機について一応了解しえないではない説明をしている。ところが、それを見た亀井警部が原告一夫を取り調べた結果作成されたものと認められる同原告の一二月一六日付員面調書では、虚偽の自白をした動機として右手記に書いた、高橋二郎から「警察に来たらやらないことでもやったことにして、裁判のとき本当の事を言うんだ。」と言われたということが嘘であり、警察により無理な取調べを受けた事実もないと述べ、右手記を書いたのは、「早く無罪となって出て行きたい考えから」であり、「今後は正直にお話して潔く罪になる覚悟であります。あのような嘘の事を書いて本当に申し訳ないと思っております。」と述べ、否認の手記の信用性を著しく減殺する結果となっている。

無実の者がいったん虚偽の自白を撤回しようと決意したのであれば、取調べが厳しかったとしても、再度犯行を認めることには頑強に抵抗するのではないかと思われるのに、特に抵抗した様子もなく右のような態度を示したのであるから、当時の検察官としては、否認の態度が確固たるものではなく、刑罰に対する恐れや親族に対する配慮から否認したものと考えたとしても無理からぬことである。

(九)  高橋二郎の供述

原告らは、「検察官は、高橋二郎の員面調書六通及び同人を取り調べた結果から、原告一夫の自白に信用性がなく、同人が無実であることを知るべきであった。」と主張する。

確かに、高橋の員面調書(<証拠>)、検面調書(<証拠>)によれば、原告一夫は房内で高橋に対し、

① 一二月四日朝食後初めて会話した際、「俺が東京に行く一〇日ほど前、松山で三人か五人殺された事件がある。五万円盗って火をつけて逃げたんだ。」、「その疑いで俺が引っ張って来られたんだ。一番若いんで二一位になるんだが、今ここ(留置場)に入ってた。もう一人は東京の方へ行ってる。それがどこか少年院かどこさか入ってるために話したんだべ。余計なことを言わなきゃいい。」と述べていたこと、

② 一二月四日夕方、高橋が松山事件とはどういう事件かと聞くと、「二人だか三人を殺して火をつけ、その犯人が東京の方に逃げた事件だ。警察は俺がやったんだと思って調べてやがる。俺はやった覚えはないんだ。」、「松山事件の前の晩、鹿島台に一〇時ころ着く汽車に一人乗って家に帰って来たのだがどこをどう歩いたものか全然その後の事は解らない。」等と話し、高橋が「やったことはやったと隠してはだめだ。」等と言うと、「俺は頭がクシャクシャしてこんがらがって来るので何が何だか解らなくなる。」等と言っていたこと、

③ 松山事件を自白した晩の翌朝(一二月七日)に「実は俺は本当はやっていないんだ。一七日晩に小牛田で汽車に乗ったまでは覚えているが、それから一九日朝までのことはさっぱり判らないんだ。ヒロポンを射って物忘れする。」と言っていたこと、

④ 松山事件の凶器が何であったかについて、棒、まさかり(薪割)、鉈、そして再度まさかりと、転々と話が変わったこと

が認められ、これらの事実からは、原告一夫が松山事件について経験者とは思われない曖昧な話をしていたこと、松山事件には関与していないと述べていたこと、一〇月一七日晩の行動を思い出せず困惑していたかのようであることが窺われるのであり、原告一夫が犯人であることに疑問を抱かせるものである。

しかしながら、同じ高橋の員面調書、検面調書によれば、原告一夫は房内で高橋に対し、

① 一二月六日晩(自白した晩)、殺害の動機について、「金を盗りに入ったが、目を醒まされたので殺した。」と話していたこと、

② 捜査員に対して自白した後、松山事件の内容について、自白した内容とほぼ同様の事実を詳しく話して聞かせていたこと、

③ 一二月八日の朝、「(松山事件は)自分でやったことは間違いないんだが、ヒロポンを射っていたため物忘れする。」と話していたこと

が認められる。

以上のとおり、原告一夫の房内における言動には、松山事件の犯人ではないことを窺わせる部分もあるし、また犯人であることを仄めかすようなものもある。

思うに、留置場において同房となった者どうしの会話の中では、相手に自分のことを重大事件の犯人のように思われたいという心理が働き、やってもいない犯罪事実を仄めかすということも考えられ、原告一夫が高橋に対し松山事件の犯人であることを仄めかしたり述べたりしたことも右のような心理によるという見方もできないではない。けれども、逆に犯人ではないことを窺わせる部分については、留置場で会ったのが初めての、素性の知れない高橋に気を許さず、無実を装うとしたという見方もできないではない。いずれにしても、検察官が高橋を介して留置場内における原告一夫の言動のみから同原告が犯人であるか否かについての心証を直接形成することは、適当でもないし、また困難でもあったというべきである。

また、前述二2のとおり、高橋が原告一夫に対し自白の示唆を行っていたことは、同人の供述調書からも認めることができるが、右自白の示唆の影響を受けて原告一夫が虚偽の自白を行ったとはただちに考えにくいことも前述のとおりであり、検察官がその疑いを結局否定したとしても無理からぬことである。

(一〇)  まとめ

(1) 起訴の違法性判断基準

公訴の提起は、検察官が裁判所に対して犯罪の成否、刑罰権の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから、起訴時あるいは公訴追行時における検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑であれば足りるものと解するのが相当である(昭和五三年一〇月二〇日最高裁判所第二小法廷判決、民集三二巻七号一三六七頁)。

(2) 具体的検討

以上(一)なし(九)に述べた起訴当時の証拠状況を総合すれば、

ア 確かに、原告一夫の供述していた殺意を生じた経緯には、やや特異な印象を否定できず、また同人の自白中には、経験者としては些か不自然とも思える変遷が少なからずあり、その供述を変える際には、調書上特に理由を述べておらず、単に「前の供述は誤りで」とか「前の供述は嘘で」というのみであり、客観的事実に一致すると認められる部分は、そのほとんどが事前に捜査員が把握していた事実の限度を超えるものではなく、自白によって初めて明らかになった事実は土地勘のある原告一夫が想像によって述べることもできたものであり、さらに、経験者の供述としては些か具体性、迫真性を欠く部分が認められるのであって、供述全体の信用性についても少なからず疑問を感じさせるものである。

しかし、高橋二郎の供述から窺われる原告一夫の留置場における言動一つをとってみても、同原告が捜査員に対する自白と重要な部分(殺意を生じた経緯、着衣の処理など)で異なる事実を高橋に述べていたことが窺われ、原告一夫が捜査員に述べたことのうちどこまでが本当なのか見極めがつきにくいのであり、供述の変遷等が、自白の信用性に関わる事実についての評価も、真犯人が犯行全体について自白しながら真実を出し惜しみしているという見方ないしは記憶力が乏しく正確に記憶していない部分があるという見方もできないではなく、事実、原告一夫は、犯行の全貌を自白した後、当初犯行を思い出すのが怖かったので本当のことを言えなかったとか、記憶がはっきりしないのは蓄膿症が原因であるなどとも述べている。

しかも、原告一夫が検察官に対して供述した犯行態様や犯行前後の行動は、既に警察において不自然な部分の多くを訂正した後のものであって、任意性についての疑いの生じにくい検察官による取調べにおいてすらすらとこれを供述したなら(<証拠>)、検察官が原告一夫に対する嫌疑を深めたとしても無理からぬことというべきである。

イ もっとも、高橋二郎の供述から窺われる自白した翌朝の原告一夫の留置場における態度やいわゆる否認の手記によれば、逮捕されたことも初めての原告一夫が、事件当夜の行動を思い出せず、厳しいアリバイ追及に混乱し疲れ果て、高橋の自白示唆に乗じ、やや軽率で迎合的な性格とあいまって、公判で否認すれば有罪にはならないだろうという希望的観測などから、捜査段階における自白の意味を軽視して自白したという可能性がまったく認められないわけではない。

しかし、原告一夫は、当初犯行を否認していたのに、アリバイ追及を受けてアリバイ主張を変転させたうえそれがすべて崩された末に自白したのであり、真犯人が自白に至る経過として自然であり、勾留裁判官の面前においても自白したばかりでなく、一二月九日に行われた実況見分を録画した一六ミリフィルムや自白を録音したテープからは、あたかも真犯人であるかのように振る舞っていたことが窺われ、さらに供述の任意性についての疑いの生じにくい検察官による夜間検証の際にも、「あの晩ここで躓いた。」とか「あの晩はもっと暗かったと思う。」などと、あたかも経験に基づくと思わせるような供述をしていたこと、自白調書にも自発的に供述したと思われる部分が認められ、客観的な証拠との矛盾を指摘されると否認に転じるでもなく、積極的につじつまの合うように供述を変えているらしいことなど、自白を継続していた九日間の言動には、警察の取調べが厳しかったり、高橋二郎による自白の示唆があったために虚偽の自白をしたと考えうるような状況は認め難いのである。そして、起訴当時の証拠状況からは、原告一夫は、右のように犯人と思わせるような態度を取った理由について、納得のゆく説明をした形跡はない。むしろ、いったん否認に転じながら再度自白し、また否認に転じるという不安定な態度が見られ、否認に転じた後のアリバイ供述も虚偽のものと認められたのである。

ウ 放火のように客観的な証拠の少ない事件で、土地勘のある被疑者が事実を創作してあたかも真犯人であるかのような供述等を任意に行った場合には、そうすることについて例えば誰かを庇う目的があるとか、より重要な事実を秘匿する目的があるとか、自暴自棄になっているとか、あるいは知能程度、性格に疑問があるなどの事実が認められない限り、検察官がその虚偽であることを看破することが困難であることは否定できない。確かに起訴当時の関係証拠によっても、原告一夫は落ち着きがなく、日常軽率な行動もあることが認められるけれども、同原告の知能程度は低くないものと認められたのであるから、死刑の可能性も十分に認識できるであろう重大事件について、虚偽の、詳細な自白をしたという可能性は低いと判断したとしても無理からぬことであるし、原告一夫の供述中には、夜間検証時における稲杭に関する指示説明や、木小屋に杉葉束があったという供述のように、真犯人でなければ述べ得ないと思われるような供述もあるのであり、起訴検察官は、原告一夫が適当に述べたことが偶然客観的事実に一致したとは考えにくかったと思われる。

エ 以上のとおりであるから、検察官が原告一夫の自白の任意性、信用性を肯定した判断が不合理であったということはできない。

オ そして、原告一夫の事件当時使用していたと認められる本件掛布団の襟当には人血痕が存在し、それがABO式血液型判定において原告一夫ないしその同居の親族の血液とは認められず、被害者らの血液と見るも矛盾しないという三木鑑定の結果概要の連絡を受けたことにより、この鑑定結果が原告一夫の「犯行により返り血を浴び、手、顔、着衣については大沢堤で洗ったが、髪の毛は洗わずに帰宅し、敷いてあった布団にもぐりこんだ」という供述を裏付けると判断したことは、他に本件掛布団に同型の血液が付着する原因が証拠上認められず、経験則上も他の原因により付着したとは考えにくかったと思われるのであるから、十分に合理的であったというべきである。

(3)  以上のとおりであるから、起訴当時の関係証拠を総合勘案すれば、原告一夫には合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑が存在したというべきであり、したがって、検察官が原告一夫を松山事件で起訴したことが違法であるとはいえない。

3  公訴追行の違法性

原告らは、請求原因4(三)のとおり、「検察官は、松山事件の公訴追行において、原告一夫の無実を裏付ける証拠を証拠調請求せず隠匿し、また公判に提出した証拠については、その評価を歪める訴訟活動を行った。」と主張する。

(一)  検察官の証拠調請求義務について

そこでまず、検察官が手持ちの証拠を証拠調請求をすべき義務について検討する。

思うに、検察官が公訴提起後に入手したある証拠が、これを含めて各種の証拠を再度総合勘案した場合に、合理的な判断過程により被告人に有罪と認められる嫌疑があるとはいえないことが明らかとなるものであるとき、公益の代表者である検察官としては、公訴を取り消すか、裁判所に右証拠を顕出してその判断を受けなければならないというべきであり、故意または過失により右義務を怠ることは違法というべきである。しかし、右のような場合を除き、検察官が証拠調を請求しなければならない場合について格別法律上の根拠はなく、手持ちの証拠のうちどれを公判廷に提出しどれを提出しないかは、検察官の裁量に委ねられているというべきである。したがって、右のような場合を除き、検察官がある証拠を公判廷に提出しないことが違法の問題を生じることはないというべきである。

ところで、原告らが検察官が証拠調請求しなかったことが違法であると主張する証拠をみると、平塚着衣鑑定書(<証拠>)と平塚掛布団鑑定書(<証拠>)を除き、いずれも松山事件起訴当時の検察官の手持証拠であると認められ、右平塚着衣鑑定書は、送検されたのは昭和三一年一月一四日であるが(<証拠>)、鑑定作業は昭和三〇年一二月一二日に終了しており、弁論の全趣旨によれば、検察官は右鑑定結果の連絡を受けた後に起訴の判断を行ったと認められるところ、前記2(一〇)(3)認定のとおり、原告一夫には起訴当時の各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があるものと認められたのであるから、これら証拠のうちどれを公判廷に提出するかは、検察官の裁量に属したものというべきであり、検察官がその一部を証拠調請求しなかったことが違法であるということはできない。

そして、既に述べたところから明らかなように、起訴後に検察官がその存在を知った可能性の高い平塚掛布団鑑定書は、本件掛布団襟当の血痕の証明力を左右するものとはいえないから、これを含めて各種の証拠資料を再度総合勘案した場合にも、原告一夫には合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑が存在したというべきであり、したがって、検察官がこれを証拠調請求しなかったことが違法であるとはいえない。

(二)  証拠評価に関する弁論について

次に、検察官が公判廷に提出した証拠について、その評価を歪める訴訟活動を行ったという原告らの主張について検討する。

訴訟の当事者が証拠の評価について可能と考える経験則に基づき推論を行いこれを裁判所ないし相手方当事者に対し主張することは、当事者としての権利であり、刑事訴訟における検察官にあっても、論告においてこれを行うことができる(刑訴法二九三条一項)。そして、被告人、弁護人はその論告が誤りであると考えるならば、最終弁論の機会に反論を行うことが権利として保障されている(同条二項)。また、右のような論告、最終弁論に至る以前に、訴訟の当事者がある証拠について証拠調べの請求を行う場合には、その立証趣旨は明らかにされているはずであり(刑訴規則一八九条)、反対当事者にはその証明力を争う機会が与えられているのであるから(刑訴法三〇八条、刑訴規則二〇四条)、その段階で反証活動等を行うことができることとされている。このようにして当事者双方が立証活動と証拠に基づく討論を尽くした末、最終的に証拠をどのように評価するかは、いうまでもなく自由心証主義により裁判所に委ねられている(刑訴法三一八条)。

このように、訴訟は当事者相互の対論により真実を見出そうとする場なのであるから、当事者が、自己の認識としてありえない証拠の評価であることを知りながらこれを主張してことさら誤った判決を取得したような特別な場合を除いて、証拠の評価について客観的にみて誤った主張をしたとしても、違法の問題を生じることはないというべきである。

したがって、原告らが証拠の評価を歪める検察官の訴訟活動であると主張するもののうち、故意に検察官がこれを行ったと主張するもの、すなわち、①平塚着衣鑑定の結果について二回洗濯したことによる影響であると主張したこと、②掛布団襟当の血痕について原告一夫の頭髪に浴びた返り血が二次的ないし三次的に付着したものであると主張したこと、③原告一夫の上京の事実を逃走目的によるものであったと主張したこと(②及び③は、確定第一審論告において検察官が主張したことが<証拠>から認められるが、①の主張を行ったことは、そもそもこれを認めるに足りる証拠はない。)が問題となりうるが、既に述べてきたところから明らかなように、検察官がこれらの主張をした当時、これらの証拠評価がおよそありえないものと認識していたと認めるに足りる証拠はない。

(三) 以上のとおりであるから、検察官の公訴追行が違法であったとの原告らの主張は採用することができない。

四請求原因5(裁判所の職権行使の違法)について

1  争訟の裁判についての違法性判断基準

裁判官の行う争訟の裁判が違法であることを理由とする国家賠償法一条に基づく請求については、その違法性判断を制限する明文上の規定はない。

しかし、確定した争訟の裁判の認定判断の当否について再度国家賠償請求訴訟において争うことを無制限に許容する場合には、確定裁判とこれが違法とする裁判とが併存するという一種の法的葛藤状態を生じるおそれがあり、再審事由を制限列挙することにより確保されている確定裁判の効力の安定という裁判制度に本質的な要請に反する事態の生じるおそれがある。

一方、争訟の裁判の当事者は、憲法ないし訴訟手続法により、中立公平を制度的に保障された裁判所に対し、自己の権利利益を護るため、審級制度を含めて、主張立証を尽くす地位と機会とを保障されていることにより、原則としてその結果たる裁判に拘束されるべき地位にあるということができる。

以上のような、確定裁判の効力の安定性を保護する必要性のあること、その当事者に対する拘束力の正当性の根拠としての手続的保障のあることは、基本的に民事裁判、刑事裁判の別を問わないものである。

すると、およそ争訟についての裁判は単に結果として事実認定や法律判断において誤りがあるというだけでは国家賠償法上直ちに違法というべきでないことは、裁判制度の本質に由来し、これに適合する法律解釈であるというべきである。

もっとも、再審により確定裁判が効力を失った場合には、この確定裁判は、その効力の安定性を保護する必要性がなくなったといえるから、その当否を広く国家賠償請求訴訟により争うことを許容することに障害はないとする考え方もありえよう。しかしながら、法の定める再審事由は、当該確定裁判がその基礎となった裁判資料に照らして誤りであったか否かとは直接関係がないのであるから、同じ裁判でありながらたまたま再審で覆された場合に限って右のことを許容すべき積極的かつ十分な根拠があるとはいえないし、当事者に対する拘束力の正当性の根拠としての手続的保障のあることは、当該確定裁判にあっても同様なのであるから、この場合を例外的に取り扱うべき理由はないというべきである。

以上のとおりであるから、争訟についての裁判が国家賠償法上違法であるといえるのは、裁判官が違法又は不当な目的をもって裁判をしたなど、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認めうるような特別の事情がある場合である必要があるというべきであり、このことは、刑事事件において再審により無罪判決の確定した場合の原確定判決においても同様である(平成二年七月二〇日最高裁判所第二小法廷判決・民集四四巻五号九三八頁)。

2  検討

右1に従って、原告らが違法であると主張する確定第一審、確定控訴審及び確定上告審各裁判所の審理判断に関する事実を見るならば、いずれも、裁判官が違法又は不当な目的をもって裁判をしたなど、裁判官がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認めうるような特別の事情があるものとは認められないから、右原告らの主張を採用することはできない。

五結論

以上のとおり、松山事件について、警察職員による捜査、検察官による捜査、公訴の提起追行、裁判所による裁判のいずれにおいても、違法があったと認めることはできないから、その他の主張事実について判断するまでもなく、原告らの請求は理由がない。

よって原告らの請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官岩井康倶 裁判官吉野孝義及び裁判官針塚遵は、転補のため署名押印できない。裁判長裁判官岩井康倶)

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